しかし、忍が懐かしい顔に安堵したのも束の間、次の瞬簡には、彼はまた子供の顔に戻っていた。
「実は俺も昨日まで進路の事を考えていたはずなのに、気付いたらフォトグラファーになってて驚いてるんだ」
 写真家になった事は、宏幸の口から伝えられていたらしい。
「俺が志月と会った頃はまだ大学生だったけど、その頃にはもういくつか賞取ったり、仕事貰ったりしてたよ」
 少しくらいは彼が抱えているギャップが埋まるかと、忍は自分の知る情報を補足してみた。
「大学生…って、今からたかが数年先じゃないか。そんな目と鼻の先でそんな事が起こるのか…」
 しかし、忍の思惑とは反対に、彼はますます混乱してしまった。
「確かに写真は好きだし、それを仕事に出来るなら本当にそうなら、嬉しいけど  
 肝心の、動機っていうのか  プロセスも何も無しに、いきなり『仕事しろ』って言われてもな…」
 当惑しきった様子で、志月が天井を仰いだ。
 やがて彼はその首を寝台の足許に向けて動かしたので、忍も釣られてそちらに目を向けた。
 志月のそれまでの作品やその掲載された雑誌が、部屋の片隅に山積みになっていた。
 宏幸がどっさり持ち込んだものだ。
 一夜明けたら夢が現実になってしまった彼の困惑している様が、忍の目に痛かった。
(目が覚めたら十年も経っているって、どんな気持ちなんだろう…)
 今更ながら、自分のした事がどれ程の事なのかを自覚する。
 忍の背筋に冷たいものが下りた。

  例えどんな形をしていても、その人の歩いてきた道はその人だけのものだ。

  他人が手を入れてはいけないものだ。

  ましてや、それが命そのものであるのなら、尚の事。

「ごめんなさい」
 彼の、隅に追いやられた歴史が空しく積み上げられているのを見つめて、忍は謝罪の言葉をもう一度呟いた。
「だから、謝るなよ。別に忍の所為じゃなし。  俺はマイペースだから、口で言う程困ってもない。ただ、今はまだ色々戸惑っているだけなんだ」
 そう言って笑った彼は、子供でも大人でもない、不思議な表情をしていた。
 話しながら志月は、時折忍のよく知る彼の様な表情や仕草を見せたり、急に子供の様な顔になったりを繰り返す。
 十七歳までの記憶しか持たない彼が、その後の失われた十年間と今現在の自分との間でゆらゆらと揺れている。
「ただ、何か外せない大きな仕事があるらしくて、今、俺がこの通りだから企画を停めてもらってるらしい。  それだけは何があってもやらないといけないみたいで…」
 志月は今度こそ本当に困った顔をしていた。
 その「外せない大きな仕事」とやらはおそらく宏幸が去年の年末に持ってきた仕事の事だと、忍は思った。
「風景写真  しかも、遺跡ねぇ…。  しかもあんな大きな雑誌で? 何でそんな話になったんだろうな」
 どうもピンと来ない表情で志月は呟いた。
 彼は本来、考古物などにはあまり興味が無かった様だ。
 本当に困惑していた。
「まあ、俺の仕事の事は今は良いか。   話を戻そう。忍は何か進路を決めてるのか?」
 急に話題が忍に帰ってきた。
 まだ忘れていなかった様だ。
(実は、進路調査票は一年生の終わりに提出してあるんだけど  
 そんな事よりこのまま進級しても良いのかどうと言う事の方が、忍は気懸かりだった。
「まだ、決まってないとか? まあ、焦る必要は無いだろうけど、新学期までに理系か文系かくらいは決めておいた方が 慌てなくて済むと思うぞ」
 しかし、志月は忍が進級するのを前提に話をしている。
「ちょっと待って」
 忍は一度話を切った。
「志月は今、俺が進級するのを前提に話を進めているけど  それより前に、このままで良いのかどうかを話さなければいけないのではないの?」
 この一ヶ月、ずっと訊きたくて  同時に確かめるのが怖かった疑問だった。
 こんな風に正面を切って訊かれたのでは、否と言いたくても言えないのかも知れない。
 それでも、他に言葉が探せずこの様にしか切り出せなかった。
「何故?」
 志月が今の忍の質問に対して新たな問いで返した。
「何でって  これまでの経緯を憶えても無いのに面倒見る義理、無いでしょう?」
 今の彼にとっては、縁もゆかりも無い初対面のただの高校生だ。
 その面倒を見る必要など、何処にも無い。
 それが忍の考えだった。
「それは違う」
 志月は、忍の導き出した答えを即座に否定した。
「人道? 法律?   別に俺はそんな事騒ぎ立てるつもりは無いよ。
 よく考えてみて。俺はあなたと何の関係も無い。どんな義務を負う必要も無い」
 もっと他に言葉はあるのにどうして自分はこんな棘のある言い方しかできないのだろう。
 良いながら忍は、自己嫌悪に陥った。
(そうじゃなくて、義務だとか責任とか  そういうものに縛られて欲しくないだけなのに)
 しかし、それは裏を返せば、責任ではなく傍に置いて欲しいという願望の表れでもあった。
 当の忍自身にそんな自覚がある訳も無い。
 その時忍の中にあったのは、心の中でもやもやとしている何かを表す言葉が見つけられないもどかしさだけだった。
「義理は無いかも知れない。
  それでも、忍がどうしても出て行きたいのでなければ、もう少しいて欲しいんだ」
「…どうして?」
 予想外の言葉だった。
「もし今手を放してしまったら、抜け落ちている記憶が戻った時  いや、もしかしたら戻らなくても…後悔する様な気がするんだよ」
 彼もまた、己の心中を表す適切な言葉が見つけられない様子で、迷いながら一語一語口にした。
「後悔…?」
「俺は忍との間にどんな経緯があって今こうしているのか分からない。   だからと言って、いや、だからこそ…か。今この一瞬の判断で手を放してしまったら何か一生後悔する様な気がするんだ」
 照れも何も無く、志月は真剣な表情で言った。
(何か今、ものすごい事をサラっと言われた様な気がするんだけど…)
 気のせいだろうか。 「だから、もう少し  こちらの身勝手だけど、もう少し判断する時間が欲しい」
 真っ直ぐ目を覗き込まれて、更に言葉を重ねられ、忍はただ頷く事しか出来なかった。
「うん…分かった」
 その後の料理と言ったら、全く何処に入ったか分からないくらい味がしなかった。
(いて良いんだ…。このまま、前と同じに…)
 ぼんやりと、ただ手を動かして口に食べ物を運んでいるだけだった。

  前と同じに?

  同じ?

  本当に…?

 志月はご機嫌で、目の前にワインでもあれば乾杯でもしそうな雰囲気だった。
 話し込んでしまった為、かなり長い時間を掛けて夕食を摂った。
 食事が終った処で、志月は枕許の呼鈴の様なものを鳴らした。
 時間を置かず、病室に栄養士が訪れ食器を下げていった。
 長い時間を食事に掛けている割に「食器の回収に来ないな」と、忍も疑問に思っていたのだが、この病院は呼鈴で呼ばれるまで食器を下げに来ないらしい。
 食事の時間に水を差さない為の配慮なのだろう。
(…病院じゃないな、ここは)
 つい先日まで自分が入院していた桜川病院がふと脳裏を過ぎった。
 決してそこが居心地の悪い所だったという意味ではない。
 基本的に、患者側の都合より、管理側の都合でタイムテーブルが動くもの。
 病院というのは、忍の中ではそういう認識になっているだけだった。
「さて、食事も済んだし  結構いい時間だな」
 そう言われて改めてサイドテーブルの時計を見遣ると、もう九時を回っている。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ? ゲストルームの方に備え付けのがあるから」
「え!?」
「見舞い客や付き添いの人間が不自由無く泊まれる様に、一応シャワールームは付いてるんだ。…ああ、着替えが無いんだったな」
「あ、それは今着てるのをそのまま着るから、良いけど…」
「何で。せっかく汗流して服がそのままじゃ気持ち悪いだろ」
 志月の足は既に造り付のクローゼットに向かっていて、忍の異論は聞き入れてもらえそうになかった。
「それは…そうだけど…」
 それとは別に思う処があり、出来ればシャワーそのものも辞退願いたかったのだ。
「ほら、こっちがパジャマ。で、これが明日の分の着替え。バスタオルはシャワールームの隣に棚があるから、適当に使えば良い」
 忍の心中は置き去りに、志月は衣服類を忍に手渡した。
「ほらほら、早くしないと十時を過ぎたらボイラー止められるんだぞ」
 そして早々に扉一枚隔てた向こう、ゲストルームへと追いやられた。
 忍は仕方無く扉横にある蛍光灯のスイッチを入れた。
 ゲストルームは病室の三分の二程で、約十畳くらいの広さだった。
 シングルベッドが一台と、こちらにもソファとテーブル、それにワードローブが置いてあった。
 気が重いと言った態で、忍はのろのろと衣服を取った。
 汗をかいているのも事実だったので有難いのは有難い。
 しかし、これまでの過程を思い遣ると忍は何とも複雑な気分にさせられた。
 この扉の向こうにいるのが、例えば千里や北尾なら  あるいは宏幸でも、何も思わなかっただろう。
 志月だから気になるのだ。
 薄い壁一枚隔てた向こうに、ついこの間まで肌を合わせていた相手がいる。
 しかも相手はその事を憶えていない。
 その状況で服を脱いで、シャワーを借りて、相手の衣服を身に付けると言うのは、何とも形容しがたい事態だった。
(向こうは何も憶えていないんだから、意識する方がどうかしてるのか…)
 忍は、表しがたい居心地の悪さに溜息を吐いた。
 まるで気分の晴れない入浴を終え、手渡された寝間着に袖を通した。
 志月の服は忍には大分大きく、袖…裾ともに二折りしなければ着られない。
(見た目より大分大きいんだな、志月…)
 見るからに大柄な北尾と違って、志月はパッと見にはそれ程大きくは見えない。
 それ程骨格が大きくないからだろう。
 何気に顔に近づけた袖から、懐かしい香の匂いと消毒薬の混じった匂いがした。
「……」

  これから先、どうなるのだろう。

  これから先、どうしたいのだろう。

 戸惑うばかりで答えは出ない。
 相手の事はおろか、自分自身の気持ちさえ分からない。
 元に戻りたい訳ではないし、離れたいのでもない。
 まるで目的地を持たないまま十字路の真ん中に突っ立ている様だ。
 少し気持ちが沈みかけた時、突然ゲストルームの扉をノックされて、忍はびくりと肩を揺らせた。
「おい、もしかして、もう寝てるのか?」
 扉の向こうから、志月の声がした。
 万が一寝ていたら、と気遣ってくれたらしく、随分控えめな声の大きさだった。
「大丈夫、起きてるよ」
 扉越しに答えて、忍は慌てて髪を拭いた。
 時計を見てみると、一時間近く経っていた。
 知らない間に随分なが風呂をしていた様だ。

 何気に見遣った窓の外は朧月夜。
 春特有のぼんやり霞んだ景色が、とても幻想的だった。
 小高い丘の上から住宅街を見下ろす風景は、都会のネオンとはまた違った蛍の様な灯りが淡く優しく明滅する。
 忍は小さく息を一つ吐き、病室へ繋がる扉を開いた。

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