「忍君、忍君、おーい」
 少し間の抜けた呼び掛けが、転寝していた忍を起こした。
「あっ?! え? あれ?」
 目を開くと、そこは夜でも暗がりでもなく、真昼の電車の中だった。
「目的地までまだ一駅あったんだが、随分うなされてたからつい起こしちゃったよ。  大丈夫かい?」
 宏幸が心配そうに忍の顔を見つめている。
「え…と、大丈夫です  ただちょっと夢見が悪くて」
 得体の知れない、不気味な夢。
 この夢を見るのは、退院以来  一ヶ月ぶりくらいだろうか。
 忍は大きく息を吐いた。
(でも、ひとつ分かった…)
 より鮮明さを増して映写された赤  あれは、血の色だったのだ。
 そして、あの歓楽街。
 あれは  
(俺の、生まれた  町)
 病院で、小田切医師には記憶に無い光景だと言ったが、本当にそうなのだろうか。
 それは、もしかしたら本当に起こった事なのかもしれない。
 忍は、言いようも無い不安が胸を覆うのを感じた。
「お茶でも飲みな。飲みさしで悪いけど」
 のんびりした声で、宏幸がペットボトルを差し出した。
「ありがとうございます」
 それを受け取り、忍はお茶を一口含んだ。
 温んだお茶が咽喉を滑り落ち、ようやく現実に戻ってくる事が出来た。
 窓の外は郊外の住宅地で、穏やかな午後の光が射している。
「緊張してるかい?」
 宏幸が問う。
 夢の事など知らない彼は、きっと志月と会う事に緊張していると思ったのだろう。
  少し」
 苦笑を浮かべ、忍は答えた。
 これは嘘だ。
 少しどころではない。
 相当緊張している。
「川島さんは、あまり抵抗無いんですね。  今の状態に」
 宏幸は不自然なくらいに、親友のこの災難を自然に受け容れている。
 思い起こしてみれば、最初から彼はそうだった。
 火事の後、初めてその話をした時も、彼は「それで良かった」とさえ言い放ったくらいだ。
「うーん…そうだなぁ…。前にもちょっと話したけど、多分今の志月の方が、俺にとっては普通の状態だからかなぁ」
「…そうですか」
 忍は分からなかった。
 今の方が普通の状態だと言う事が。
 忍が出会った志月は、宏幸にとっては不自然な存在なのだと言う。

  それは、何もかも無かった方が良かったと言う事なのだろうか。

 針の様に先の尖った疑問が、胸を突付いた。

  今日これから出会う彼は、一体どんな人物なのだろう。

 暗澹たる思いが、胸の中で重く広がる。
(やっぱり、会わない方がいいのかもしれない)
 いっそ、このまま電車に乗って逃げてしまいたい。
 そんな衝動が湧き上がった時、車内放送が入った。
『藤ノ谷~藤ノ谷~。お降りになられるお客様は  
 どうやら目的の駅に到着したようだ。
「さて、降りるか  っと!!」
 宏幸が立ち上がった瞬間、強くブレーキが掛かり、彼はバランスを崩した。
「わっ! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫大丈夫、びっくりしたけど」
 バツが悪そうに苦笑して、宏幸は身体を立て直した。
 到着のどさくさで、忍は自分の中に衝動的に湧き起こった迷いを忘れる事が出来た。
 藤ノ谷は閑静な郊外の住宅街だった。
 一つしかない改札を出て、目の前にバス停がある。
 あまり待つ事も無く、バスは停留所に入ってきた。
 バスの利用者は意外と多いようだ。
 運転士が出発の合図をする頃には、ほぼ満席になっていた。
 郊外の住宅地の中をくねくねとバスが走る。
 このバスは迂回が多いだけで、直線距離としては藤ノ谷駅からそれ程離れないらしい。
 遠くに山が見え、住宅街の中にもぽつりぽつりと田畑が見える。
 何とも長閑な景色だった。
 二十分程経った辺りで、丘の上の高台に大きな白い建物が見えてきた。
「あ、病院が見えてきたぞ」
 一見リゾートホテルの様にも見えるそれを指差して、宏幸が言った。
「あれですか!?」
 およそ病院には見えないその佇まいに、忍は驚いて席を立ちそうになる。
「もともとオエライさんの為の療養所とか言ってたな、あれ。あまり病院っぽくしてると滅入るとか言って苦情が来るらしいな。だから、ああいう建物にしたとか言ってた」
 忍の驚きに、宏幸が呆れた様な声で答えた。
 今更、自分の保護者が桁違いの富裕者だった事を思い出さされる。
(今更…だけど、世界が違う…かも)
 今まで感じていた感傷的な部分ではないところで、改めて忍は不安を覚えた。
 その後もバスは住宅街を蛇行しながら、その療養所とやらにゆっくり近づいていった。

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