scene.4 始原の海の底で
その後も七海の古生物学講座は続いた。
もしかしたら、病院での指導より熱心かもしれない。
「本当に、好きなんですねぇ」
あまりにも一生懸命レクチャーしてくれるので、思わず口からそんな一言が洩れた。
「まぁ、三つ児の魂百まで、ってやつかな。
だってすごいと思わないか? およそ30億年前、始原の細胞が出現した瞬間から、今日に至る生命の進化が始まったんだ。
今ここに展示されているヤツらは、生き残れなかった種だけれど、確かに彼らの残した鎖は今もちゃんと繋がってる。
もちろん、シーラカンスみたいに大昔に出現した頃から変わらない姿のまま生き残っているヤツもいる。
僕らの足の下を支えてる地面の下には、まだまだそんな神秘的な存在が眠ってるんだ。
叶うなら一度自分の手で掘り起こしてみたいと、思うよ」
無邪気に頬を紅潮させながら話す顔は、まるで子供そのものだった。
普段はどちらかというとあまりはしゃぐ性質ではない恋人が、無邪気にはしゃいでいる姿はやっぱり見ていて嬉しい。
たとえ要自身に全く興味の無い内容であろうとも。
だが。
あまりにも熱心で、あまりにも楽しそうに話すので。
嬉しい気持ちのその隣では、ある種の不安が首をもたげ始めていた。
(もしかして、常盤木先生はいずれ医師をやめるつもり…なのか…?)
救急医として、これほど優秀な人もそういない。
けれど、優秀さや資質と、願望は別のところにある。
要自身が、成績で言えばごく平凡であったにも拘らず、こうして医師を目指したように。
(まさか…な)
まさか、と思いながら
一抹の不安を拭い去れないまま、いよいよ最後のアトラクション 原始の海へと到達した。
その部屋にあるものは、一般的に原始時代と呼ばれる中でも、最も古い時代のもの。
生命の始まりだ。
人間の目には到底見えない小さな単細胞生物。
そこから、今在る全ての命が生まれた。
(静かな部屋だ)
最も深い蒼に彩られたその部屋には、七海と要自身 二人しかいない。
「さすがにここまで来ると小学生どころか恐竜マニアの大人もいないな」
要の横で七海が苦笑した。
確かに、研究者ならば普通はこんな子供向けのイベントには来ないだろうし、恐竜目当ての子供もマニアも、プランクトンはにあまり興味が無いだろう。
「本当の原始の海の色は知らないけど、綺麗な蒼だな」
七海がそう言って目を細めた。
「確かに、凝ってますね」
子供の興味を引けるように、より臨場感を求めた照明効果。
微かに揺らめくその光が、本当に海の中にいるような錯覚を起こさせる。
「お疲れさん。 せっかくの休みに、付き合ってくれてありがとう」
珍しいくらい素直な七海の謝辞に驚いている間に、その顔が近付き、掠めるようなキスをした。
「常盤木先生…っ?!」
要は慌てて周囲を見渡した。
真昼間の博物館。
七海にとっては、職場も自宅もすぐ近くの公園内施設。
いつ誰と出くわすか分からない場所。
時々、七海の行動はやたら大胆になる。
要は、動揺と動悸でくらくらする頭をどうにか支ていた。
「七海」
すると、七海が突然自分の名前を呟いた。
「は?」
「七海でいい」
「え、でも…」
ファーストネームを呼び慣れてしまったら、病院でうっかり口に出してしまわないだろうか。
「大体、麻酔の小沢先生だって僕のことは下の名前で呼んでるんだから、大丈夫だよ」
要の胸中の不安が聞こえたかのように、七海が苦笑した。
確かに、院内での七海の呼称は名字だったり、名前だったり、人によってまちまちだ。
「う…あぁ、えーと…。
七海………さん」
緊張為に、さっきよりもっと、ずっと、要の顔は熱くなった。
「 よし、合格」
にこっと笑うと、彼はもう一度要にキスをした。
ドキドキしていた。
心臓が身体からはみ出すのではないかと、不安になるほど大きな脈を打っていた。
こういう気持ちはいつ以来だろう。
中学校 もしかしたら、小学校。
放課後の教室。
今度は隣になりますようにとお祈りしながら、好きな子の隣の机に座ってみた時の気持ちのような、他愛の無いされど切実な願い事。
ずっと一緒にいられますように。
そんな気持ちを込めて、
始原の海の底で、
今度は要から三度目のキスをした。
ささやかな儀式の余韻を掻き消すように、回廊の出口から悲鳴が轟いたのは、僅か五秒後の事だった。