scene.1 オフ・スイッチ
当直明けの午後。
要は七海の部屋に当たり前のように泊まり込んでいた。
いや、最近ではもう泊まり込むというより、一緒に住んでいると言った方が正しいのかもしれない。
とは言っても、毎日彼の家に居座っている訳ではなかった。
医師不足の昨今、本来ならば日直…日直…当直…休みとなるはずのシフトが、日直通し当直10連荘などもはや日常となり、大半は七海共々医局の仮眠室で寝泊まりしている状態なのだ。
まことに過酷な勤務状態が続いている。
明日は一応オフだ。
拘束当番、あるいはオンコールと言って、呼び出されれば出向かなければならないオフなので、遠出は出来ないが。
「常盤木先生、起きてください」
要は、七海が顔が半分埋まるほど深く被っている布団を引っ張った。
「眠い…もうちょっと、寝る」
せっかくの睡眠をß妨げられた七海が、負けじと布団を身体に巻き付け、要に背を向けた。
その姿は、まるで巨大な春巻きだ。
彼とは、付き合い始めてちょうど半年。
最近では、家族よりよほど一緒にいる時間が長い。
要が研修医としてERに入局した当初、指導医として紹介された常盤木七海という人物は、非常に神経質な人物という印象だった。
実際、付き合い始めた頃は、僅かな寝返りでも彼が目を覚ますので要も随分気を遣ったのだが、今やこのテイタラクである。
「ダメですよ、今からそのシーツ洗濯するんですから。ほら、医局で溜め込んでる洗濯物も出してください」
負けるものか、と要は春巻きの皮を勢い良く引っ張った。
布団を剥がされた七海が、ベッドの上で猫のように丸くなって転がる。
「上官命令に背いたな。反逆罪だ」
不承不承の態で起き上がった七海が、要を睨んだ。
小柄で、どちらかというと細身で、一見柔和な外見だが、彼は医学生や他の研修医の間では"鬼軍曹"と呼ばれ、指導が厳しいことで有名なのだ。
(鬼軍曹のこんな姿、学生が見たら混乱するだろうなぁ)
病院にいる間、要の目に映る彼は、完璧に近く隙の無い上司。
しかし、一たびオフタイムになるとどこのスイッチが落ちるのか、大雑把な不精者に成り果てる。
洗濯するのが面倒などという理由で、スーパーの吊るし売りのようなTシャツまでクリーニングに出すのほどの不精さ加減だ。
「はいはい、どうとでも処分して下さいよ。でも、そのシーツは洗いますから、早くベッドから下りてください」
要は、有無を言わさず七海をベッドから下ろした。
「あーあ。お前すっかり可愛げ無くなっちゃったなぁ。入局当初は仔犬のように素直で可愛かったのに…」
無理矢理布団から引き剥がされた七海が、しみじみと溜息を吐いた。
「仔犬ってなんなんですか、不気味っすよ。こんなデカイ仔犬いたら」
思わず両手一杯に抱えた洗濯物を取り落としてしまいそうになった。
「まーね。身長180超えの仔犬はヤだよ、僕も」
今度はリビングのど真ん中に胡座をかいて、七海は背中を丸めて座りこんでしまった。
そして、ぶつくさと文句を言いながら、今朝の朝刊を徐に広げている。
その姿はまるで休日のサラリーマンだ。
「じゃあ言わないでくださいよ、自分で想像しても気色悪いっす」
要には、自分自身と仔犬というイメージがまるで繋がらなかった。
(つか、可愛いって言うなら常盤木先生の方だよなぁ。気まぐれで猫みたいだけど)
口に出したら灰皿の一つも飛んできそうな台詞を飲み込み、要は洗濯機が置かれたバスルームの方へ向かった。
当直明けの洗濯は、何となく要の役割になっていた。
元々は、医局のロッカーに置いてある着替えを洗う為に洗濯機を借りていたのだが、同じ電力と水道費を使うなら、と、七海の服も一緒に回すようになったのである。
何せ、放っておくと彼は下着までクリーニングに出し兼ねない。
病院という箱から外へ出ると、彼は全くの生活無能者だった。
いや、そもそも要がいなければ自宅にすら帰ってこないかもしれない。
「遠藤、それ終わったらちょっと外出ないか?」
洗濯物をネットに詰めていると、背後で七海の声がした。
「珍しいっすね、常盤木先生が自分から外出したがるの」
休みに出掛けたがるのは、大抵要の方だ。
七海は、どちらかというと部屋でのんびり休みたい派だった。
「ちょっと行きたいところがあってさ。 別に、お前はゆっくりしたいなら一人で行くからいいけど」
そう言って七海はあっさり身を翻した。
要は、慌ててその場を離れようとする七海の肩を掴んだ。
持っていた衣類がばさばさと床に落ちる。
「ちょ…っ、行かないなんて言ってないじゃないですか! もうちょっとで終わるんで待っててください!」
「あ、そ」
再び振り返った恋人は、急いで洗濯の準備を進める要の横にしゃがみ込んだ。
手伝う気は毛頭無いらしい。
とにかく洗濯機に放り込んでスイッチさえ入れてしまえば、後は勝手に機械がやってくれる。
要は大急ぎで洗濯の準備を進めていた。
型崩れすると困る衣類をネットに、それ以外は直接洗濯機に。
慣れた手つきで振り分けていく。
突然、その手がピタリと止まった。
「 あの、常盤木先生」
困ったな、という表情で、要は七海に視線を向けた。
「何?」
「背中 もたれられてっと、すっげぇやり辛いんですけど…」
要の左肩に、七海がずっしり全体重をかけていた。
「やっぱそれ後回し。上官命令」
要するに、早く出掛けたいらしい。
(ついさっきまで、まだ寝るってゴネてたくせに、わがままだよなー…)
要は深く溜息を吐いた。
(夜に洗濯干すといまいち消毒出来てない感じでヤなんだけどな、俺)
しかし、上官であろうと無かろうと、要は七海に勝てない。
惚れた弱み全開だからだ。
勿論、最初から恋愛対象だった訳ではない。
出会った頃は、それは怖い上司だった。
怖かったが、尊敬出来る人間でもあった。
それが、いつから違う角度から見詰めるようになったのだろう。
その境界線を、今はもう思い出せない。
「まーだーかー!?」
ほんの少し物思いに耽っていたら、今度はしゃがみこんだ背中を思い切り踏まれた。
(何で俺、こんな人好きなんだ…?)
自分自身がどこか釈然としなかったけれども、それでも好きだから仕方ない。
泣く泣く洗濯を諦め、要は立ち上がった。
そして、着替える間も無く普段着のままマンションを出た。
「それで、どこに行きたいんですか?」
七海の部屋を出て既に5分。
要はまだ目的地を聞いていなかった。
「桜川西公園で開催中の恐竜展」
「は…?」
「だから、恐竜展」
「はあ…」
彼から聞かされたのは、意外な場所だった。
町の東側にある七海のマンションからは、地下鉄の駅を挟んで反対の西側にある、ちょっと大きめの公園だ。
陸上競技場や小さな博物館、ボートにも乗れる池があるところだ。
今、その西公園の博物館で恐竜展が開催されていることは、要も知っていた。
何故なら、今朝の新聞のそのイベントの折り込みチラシに入っていたからだ。
(なるほど、アレ見て思い立った訳か)
それにしても、そういうものに興味があるとは知らなかった。
(いや、それ以前にアレ、対象年齢が小学校高学年になってるぞ)
"世界の恐竜展
~さあ、きみもやってみよう! とても楽しい発掘体験!~"
以上がこの催し物の正式名称である。
「だから、いつも言ってるだろ。言いたいことは口に出せよ」
要が微妙な顔をしていたのだろう。
七海が眉根を寄せて要を睨んでいる。
「いえ、その、スミマセン。いや、常盤木先生ってこういうのに興味あったのか、と思いまして」
子供向けのイベントというのも意外だが、恐竜自体も意外だ。
「興味無かったら帰っていいぞ。一人で行く」
七海は、要からふいっと顔を背けて、そのまま早足で歩き始めた。
「あぁ、もう! 別に文句言ってないじゃないですか。そうやってすぐムクレるの止めて下さいよ!」
一人で先々歩いてゆく恋人の背中を、要は慌てて追いかけた。