要がその時の事を憶えていないのを気付いていた。
その上で七海が怒っていない事に要は安堵と共に脱力した。
ここ数ヶ月間最大の気掛かりだったからだ。
ところが。
苦笑いをしたかと思うと、七海は真っ直ぐ要の目を見ながら詰め寄ってきた。
「遠藤が初めてここに泊まった日…あの日、僕が先に仕掛けた。
そう、………こんな風に」
七海に強く胸を押され、要は背中から床に倒れた。
「痛っ!」
したたかに肩を床にぶつける。
しかし、その痛さよりも七海の放った言葉に対する驚きの方が大きかった。
(常盤木先生が、仕掛けた…!?)
反対の事を考えていただけに、要の頭の中はなかなかそれを認識する事が出来ない。
「やっぱりね…。その後の態度見てたら、憶えてないんじゃないかな、とは思ってたんだけど」
七海が苦笑いして要の顔を見ている。
「す、すみません」
要の記憶が曖昧になっている事を、七海はどうやら気付いていた様だ。
「あの日は、やっぱり今日みたいな当直明けの朝だったな。
明け方に重体の患者が搬送されてきて、当直の面子も今日とほぼ同じだったかな。
違ったのは、その日運ばれてきた人は、助からなかった…」
七海に見下ろされながら、要は薄ぼんやりとその日の事を思い出し始めていた。
(あ、そうか。…そうだ)
それは、要がERに入局してから いや、卒業後研修医になってから、初めて患者を失った日だ。
(何で、そんな日を忘れていたんだろう…)
「現場でミスは無かった。五件の病院に受け入れ拒否されて、うちに着いた時にはもう心肺停止状態だった」
それは、"救命できなかった"というよりも、"蘇生できなかった"患者だった。
曖昧な記憶が、徐々にその輪郭を鮮明にしてゆく。
「医者が言う言葉じゃないけど、"仕方無かった"。そういう事例になるんだろうな。でも、遠藤は…本気で落ち込んでた。…まぁ、当たり前なんだけど」
(ああ、そうだ。そうだった)
七海の口を通して辿る、その日の記憶。
要の手の中にも握られている、医療という、神の領域の僅か一破片。
命を左右する力の、ほんの一部分を手にしている、医師という仕事。
それが万能ではない事を、頭では分かっていた事を、現実として実感させたれた瞬間。
(何で、そんな事を忘れていたんだろう…)
改めて思い返してみると、その日の朝の記憶全体が、曖昧になっている。
それはもやもやとして、煙に巻かれた様な歯痒い不鮮明さに覆われていた。
「もともと、僕が限界ギリギリのシフトを組んでたんだけど、その日はお前も、体力がギリギリのところへ、精神的にとどめを喰らっちゃったみたいな感じで…さすがにちょっとヤバイかな、って雰囲気だった。…だから、ここに連れて帰ったんだ。
…僕だって、一人になりたくなかった。やりきれないよな、ああいうのは」
掴もうとした何かが、指の隙間をすり抜けてしまった様な喪失感。
七海がとっくに過去に送ってしまった記憶が、今、要のでは今真新しい感覚として蘇り始めている。
「あの日は、コーヒーじゃなくてビールだったかな。遠藤がグラスに手を引っ掛けて、派手に溢して、僕が服を脱がせた」
七海はまるで、その日の出来事を再生しようとしているかの様に、ゆっくりと要のシャツのボタンを外していく。
直に触れる七海の指は、さっきまで冷たいグラスを持っていた為なのか、随分ひんやりしていた。
その冷たさに、反射的に眉を顰めた
「あ、ごめん。 冷たかったか?」
それを見て、七海はすぐに指を引いた。
そして、自分の手に息を吐きかける。
少し伏し目がちになるその表情が、妙に色っぽく感じた。
緩やかに蘇る記憶の中で、あの日も彼は同じ様な顔を要に見せた。
要は、自分の胴に跨ったままの七海の頬に、無意識のままに右手を伸ばす。
すると、その手は目的の場所に届くより先に、七海の手に捉えられてしまった。
「遠藤が…無事で良かった」
要の右手に七海が頬をすり寄せた。
「え…? ああ、今朝の、あれですか?」
明け方搬送されてきた患者に、要が噛み付かれてしまった時の事を、七海は思い出している様だ。
跡が残るほど強く噛まれた指に、柔らかい口唇が触れる。
要は、痛い様な、甘痒い様な、奇妙な感覚に捉われた。
「医者は身内を診ちゃいけないって言うけど、本当だよな。
あの時、ギリギリの瞬間、僕は…遠藤の事しか考えられなかった。
遠藤に何かあった時は、医局長に頼む事にするよ。でないと、僕はきっと判断を誤って死なせちゃうだろうから」
いつもの様に強気に軽口を叩く七海の、要の手に触れている指が小さく震えていた。
改めて顔を見れば、その肌は少し蒼ざめている。
その時の事は、要自身も思い返すと怖い。
しかし、あの瞬間、取捨選択の判断を委ねられた七海が、本当は一番恐怖を感じたのではないだろうか。
本当は、あの場から逃げ出したい気持ちだったのではないだろうか。
七海に預けた負荷の重さに、要は今更気付いた。
そして、そういう一瞬一瞬に迫られる選択に対する恐怖に、七海が一人で耐えてきた事を知った。
彼もまた、当たり前の脆さを持ち合わせている普通の人間なのだ。
いつも医局で見ている、揺るぎない強さを持った医師としての彼ではない、未完成で不安定なもう一人の七海。
いつも、下から見上げる角度で見える顔と、同じ目線の高さから見える顔は、まるで違っている事に、やっと気付く事が出来た。
要は、触れる指の感覚よりもっと、甘い様な、熱い様な、そんな塊が自分の身体の奥で膨らむのを感じた。
こういう気持ちが"愛しい"と呼ぶのかもしれない。
「大丈夫です。俺、無事ですから」
ゆっくり起き上がると、七海が引っ張っているところから、シャツが半分身滑り落ちる。
七海の身体に腕を回した。
彼が着ているブラウスの生地が、直肌に擦れてくすぐったい。
必死で追いかけてきた背中が、今は手の中にある。
それは、ただ追う為のものではなくて、要が支えなければならないものでもあったのだ。
七海ばかりが強い訳が無い。
彼もまた、強さの裏側に弱さを抱えた一人の人間だったのだ。
「俺、ずっと一方通行だと思ってましたけど、違ったんですね」
ちゃんと相手に想われていた自分を、ようやく要は見つける事が出来た。
「僕も、一方通行だったらどうしようって思ってたよ」
それは、七海も同じだった様だ。
二人して見失っていた、パズルの最初の一ピースがやっと埋まった。
「何か、すごい遠回りした気分です」
要の口から溜息が洩れた。
「大事な順番を結構すっ飛ばしたから、仕方ないね」
七海が腕の中で小さく笑う。
ふと我に返ってみると、要の上半身には衣類が全く残されていなかった。
「 一方的に脱がされるのは、つまらないですね」
今度は反対に七海の身体を下に敷いた。
「え…っ」
いちいちボタンを外すのが面倒で、少し大きめのブラウスを片手でたくし上げる。
「そういうところ、ものぐさだよな」
七海がくすぐったそうに身を捩りながら、悪態を吐いた。
そして、真っ直ぐ伸ばされた細い腕が要の首に巻き付く。
引き寄せられ、七海の口唇が要の同じ場所に触れた。
「さあ、どうする?」
首筋に腕を絡めたまま、七海が微笑んだ。
止めろと言われても困るが、そんな事訊かれても返事に困る。
「あ、や…! いきなり、どこ触…っ」
返事の代わりに、ちょっとした悪戯を仕掛けてみた。
予想外の攻撃に、七海の身体が逃げる。
「そうやってすぐ人を揶揄うから、仕返しです」
そんな風に言いながら、要自身もまた自分の鼓動が早くなるのを感じていた。
よく知っている身体だと思っていたのに、今日初めて触れたみたいに緊張している。
何か、とても大切なものが、ずっと深いところで繋がった様な気がした。