Epilogue. 嘘の周波数
一寝入りして、要が次に目が覚めたのは、日も傾いた夕刻近くの事だった。
徹夜明けに、更に気力と体力を酷使した為、昨日より遥かに全身が怠く感じた。
要は、身体を起こそうとして、自分の左腕に乗っかっている頭に気付いた。
いつもは要より早く目を覚ます七海が、まだ眠り続けている。
(よっぽど疲れてるんだな…。まぁ、当たり前か)
要は、起こさない様にそっと腕を引き抜こうとしたのだが、結局その僅かな動きに反応して、七海は目を覚ましてしまった。
「…はよ、研修医…」
寝とぼけたまま起き上がった七海が、掠れた声でそう言った。
「あ、また研修医って言いましたね」
「え…? あ、悪い。つい習慣で…」
夢現の態で、七海が目を擦っている。
「大体、何でそこまで徹底して研修医の名前を憶えるのが嫌なんですか?」
要が呆れた声で言うと、七海は面倒そうに髪を掻き揚げて答えた。
「別に…憶えるのが嫌な訳じゃないよ。憶えるまで、向こうが続かないんだから仕方ないじゃないか」
「は?」
「僕が指導に付くと、研修医って一週間持たないから。…名前憶える前にいなくなるんだよな」
七海が溜息を吐く。
「あ…そう言えば、医局長も言ってましたね、そんな事」
それどころか、イジメられたのかとまで真面目に訊かれた事を、要は思い出した。
「でも、俺、もう3ヶ月もいるんですよ? いくらなんでも憶えてくれてもよかったんじゃ…」
要が更に抗議を重ねると、七海は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「…お前のは、ちょっと事情が違くて…」
奇妙な沈黙の隙間から、ぼそっと、不貞腐れた声が洩れ聞こえた。
「はあ??」
「遠藤の名前は、僕が指導医に付く前から憶えてたんだよね、実は」
意外な話を聞かされ、要の頭はやや混乱した。
「あれは、お前がERに入る数か月前だったかな。まあ、僕はいつも通り小沢先生や田島さんと飲んでた。同じ店で、お前は別の科の飲み会に参加してて
その帰り道だ。倒れてる酔っ払いを見つけてたお前が、介抱してた。その頃は当然お互いの顔も名前も知らない訳だけど、たまたま見かけてさ。
慣れてないと、嘔吐して白目剥いてる赤の他人なんて、躊躇して触われないのが普通の反応なのに、遠藤は全く躊躇わなかったから、結構驚いた。
僕らならもう自然に身体が動いちゃうけど、研修医なんてまだ本の中身が頭にやっと入っただけの、一般人と変わらないしさ。
それで、お前の名前はすぐ憶えた。ついでに、翌日医局長に申し出て、指導も引き受けた」
少し照れくさそうに七海が言った。
「もしかして…その時から俺の事好きだったんですか?」
要が狐に抓まれた様な顔で質す。
「さあ…どうだろう。
でも、意識したのは確かかな。ちょっと育ててみたいなーって興味は湧いたし。
まさか、自分の身体が患者に接触してる状態で除細動掛けろ、とか言う無謀さ加減までは、見抜けなかったけどね」
七海が意地悪く笑った。
要は顔から火が出そうな気持ちになった。
「その話は止めましょうよ…。あの後小沢さんにも揶揄われたんですから。
でも、最初から名前憶えてくれてたんなら、何で憶えてないフリしてたんですか? アレが余計に噂の信憑性を高めましたよ」
要は、呆れ目線で七海の顔を見た。
「だから…その、照れくさいんだよ。名前呼ぶのって」
「はああ!?」
「だから、名前も何も憶えないフリしてたんだ。大体、3ヶ月も名前憶えないなんて、ある訳無いだろ」
ぺしっと、後頭部に平手が飛んできた。
「そりゃ、ま、そうですけどね…」
しかし、2ヶ月間も頭を悩まされた理由がただの"照れ"とは。
全くやれやれな話である。
「って、もう! 何言わせるんだよ! そんな事より、その床に散らかってるお前の服、さっさと洗わないとシミになるんじゃないの!?」
(コーヒー掛けたのアンタでしょうが!)
などと心の中では反論してみたものの、耳まで朱に染めているその顔を見てしまっては、実際に突っ込む気にはならなかった。
七海が吐いたささやかな嘘。
その下に隠した言葉が、彼の中から零れ落ちている。
七海の嘘は、小学生が好きな子の前でわざと悪戯ばかりする様な、拙い愛情表現だと気付いた。
「そういうとこ、可愛いですよね。 常盤木先生」
「年上を捉まえて可愛いとか言うな。…だから言いたくなかったんだ」
ますます不機嫌を装って、七海が眉間に皺を寄せた。
「まぁまぁ、そんな事より、デートしませんか?」
「デート? 別に、毎日会ってるし、今だって一緒にいるのに」
七海が不思議そうに首を傾げた。
「よく考えたら、確かに毎日会ってますけど、今までずっと、この部屋の中でしか会った事ないんですよ。
後は仕事中に医局で顔を合わせるくらいでしょ?
一緒にどこか出掛けたりした事無いんですよね」
「ああ…言われてみれば。僕にあまり完全なオフが無いしな」
「でしょ? 今回はせっかく医局長がオフくれたんですから、どこかゆっくり出掛けませんか?」
「ん、うん…確かに。いいかも」
今日が当直明けなので、正式なオフは明日だ。
これから一晩、そして翌一日、目一杯楽しめるチャンスである。
七海もまた、満更ではない様子だ。
「ところで、遠藤。
お前が誘ったんだから、もちろんエスコートはそっちだよな」
七海が、意地悪な微笑を浮かべた。
「ええっ!?」
要は、自分の財布の中身を思い浮かべ、冷や汗が出そうになった。
「嘘だよ。聞くのも涙ぐましい給料しか貰えてない研修医に奢らせようなんて思ってないから。ワリカンにしといてやる」
七海が面白そうに笑っている。
「驚かさないで下さいよ、思わず通帳の残高まで計算しちゃったじゃないですか!」
「年上を揶揄うから、仕返しだよ。 でも、出掛けるのは良いと思う。
早速、準備しようか。今からなら、とりあえず夕飯…かな?」
そう言って七海が窓に目を遣った。
地上十一階の窓の外は、暮れかかった冬空に蒼いカーテンが掛かり始めたところだ。
「あっ!!」
ベッドから降りようとした瞬間、要は重大な問題に気付いてしまった。
「な、何!? 急に大声出すな。びっくりするだろ!」
要の声に、七海が驚いて目を丸くしている。
「 それより前に、洗濯です……」
要は肩を落とした。
今日に限って着替えは持っておらず、七海の服はサイズが合わないので借りられない。
出かけたい気持ちはヤマヤマだが、出かけるに出かけられない状況だ。
「あ……」
床に目を落とすと、見事に茶色い斑点に彩られた服が情けなく散乱している。
七海が、この件に関して初めて申し訳無さそうな顔をした。
服を洗って乾かすまで、出かける事も出来ない。
"これからもこの調子で振り回されるんだろうな"と、今は晴れて恋人になった指導医の顔を見ながら、要は深い溜息を吐いた。