七海の長い沈黙。
要は逃げ出したい気持ちで、その判決を待った。
「ああ…何だ」
やがて、拍子抜けした顔で七海が呟いた。
「何だ…って」
憑き物が落ちた様に、七海の怒りが沈静化していた。
「そういう事か…。総務ね。なるほど…」
何か彼の中で腑に落ちるものがあったらしい。
「何か、心当たりあるんですか!?」
身に覚えがある様子の七海に、今度は要がショックを受ける番だった。
「あー…。ん、まぁ…。
この部屋の名義が渡辺教授っていうのは、本当だから」
気まずそうに、七海がチラッと要の顔を覗いた。
「え? ええ?? えええええええっ!?」
思わず、要はフローリングの床を掌で擦ってしまった。
(これが、教授の部屋!?)
「ごめん。まさかその事がそんな噂を呼ぶなんて、考えても無かった」
七海もまた、困惑した顔をしている。
「どういう事なんですか!?」
「僕、実家が長野だから、こっちで働く為に、この部屋を渡辺教授から借りてるんだ。
言っとくけど、ちゃんと家賃は払ってるんだぞ。…まぁ、格安だけどな。
三年くらい前までは教授自身が住んでた部屋だし、名義も勿論教授のものだし、総務の人も僕の住所見て"アレ?"って思ったんだろうなー。
でも、言い訳するつもりじゃないけど、僕は女医じゃないし、そんな噂が立つなんて、考えもしなかった」
七海の発言に、要はますます混乱した。
この部屋が、貰い物ではなく単なる賃貸物件だった。 それは良いとしよう。
では、何故七海はこの部屋を教授から借り受ける事になったのだろうか。
ERのエースだから?
それならば医局長もまたERの大切な柱だ。
彼は一時間掛けて車で通勤している。
地方出身者だから?
そんな人間は、院内にゴマンといる。
というより、地方出身者の方が多いくらいだ。
「あの…根本的な疑問なんですが、常盤木先生と渡辺教授って、どういう関係なんですか?
まさか…やっぱり、愛人…?」
「違う!」
再び同じ疑惑を口にした要に、さすがに凶器は持っていなかったが、結構な勢いで平手が飛んできた。
「痛ぇっ!」
「痛くしてんだ、バカ!!」
「じゃあ、一体どういう関係なんですか」
平手で打たれた頬をさすりつつ、要は問い質した。
その問いに七海は、一瞬困った顔を見せ、要から目を逸らした。
そのまま彼は困惑した様子で、数十秒に渡り沈黙した。
「……。絶対、誰にも言わないって約束するか? ERで知ってるの、医局長だけなんだけど」
逡巡の末、七海は真剣な顔で要に口外無用を守れるか、と質した。
「はい、絶対言いません」
要は、はっきりそう明言し、七海の口許に耳を寄せた。
釣られて七海も声を潜めて話し始めた。
部屋には二人きり 他に聞く者もいないのに、人は内緒話をしようとする時、何故この様な動作をしてしまうのだろう。
「本当に内緒だからな」
再三、七海は要に念押しをした。
「はい、約束は守ります」
要はもう一度はっきりと約束を返した。
「教授は、僕のはとこなんだ。僕の母親と教授がいとこなんだよ」
急転直下。
まさにその言葉通り、世界が180度回転した瞬間だ。
「……え、親戚なんですか!?」
要は、七海の身内に医療関係者はいない、と聞かされていた。
だから、 変な噂が立たない様に、尚更気を配っていたのだが。
それが、ER室長の親戚とは。
「そう、親戚。でも、そんなの知れ渡っちゃうと色々面倒じゃないか。だから内緒にしてるんだよ」
七海が深く溜息を吐く。
「いや、そりゃ、まあ…」
教授の心象を良くするべく、七海にまでおべっかを使う人間も現れるだろう。
(まあ…確かにそういう学閥がどうのっていうの、常盤木先生は煩わしいだろうな…)
要は、七海がそれをオフレコにしていた理由は、理解出来るものではあったが。
それにしても。
「特に、お前には知られたくなかったな」
ぽつりと、七海がそう付け足した。
その一言に、要はカチンときた。
「何でですか。むしろもうちょっと自分の事を話してくれてもいいくらいですよ!?」
反対に、自分にくらい教えてくれていても良かったのでは、と思った要は、七海を問い詰めた。
「…だって、そんな事知ったらお前さ、ますます僕に逆らえなくなるじゃないか。地位利用してるみたいになるのは、嫌だ」
七海が困った顔をして、俯いてしまった。
「地位利用って…」
何の事だか、要にはぴんと来ない。
「だって…ただでさえ、研修医なんて指導医には逆らえないのに、この上教授の身内なんて聞かされたら、身動きできなくなるだろ?
逆らったら出世できなくなる感じ、するじゃないか…」
珍しく七海が項垂れている。
「アンタ、そんな下らない事考えてたんですか!?」
恐ろしく見当外れなところで気を遣っていたらしい七海に、要は少し呆れた。
「下らなくて悪かったな。
でも、最初は真剣に悩んだんだからな、これでも!
右も左も分からない新卒捉まえて、こんな事やってたらマズイんだろうな、とか 逆らうに逆らえないんじゃないか、とか…」
「普通、下に敷かれてる方は考えないですよ…そんなの」
要は呆れ顔で答えた。
「仕方ないだろ。僕の方が立場が上だったし、ERでもどれだけ無茶させてもお前は絶対逆らってこなかったし、もしかして、その延長だったら…とか」
七海が不貞腐れた顔で横を向く。
「いくらなんでも、仕事の延長で上司と寝れませんよ!
それこそ、さっきのアンタの言い草じゃなけど、俺がそういうキャラに見えるんですか?」
自分はあれだけ怒ったくせに、何を似た様な事言い出すんだ、と要は呆れた。
「分からない」
「何でですか」
「最初に、遠藤の気持ちを確かめなかったから、分からない」
困った顔で目を伏せてしまった七海のその言葉に、要の心臓が跳ね上がった。
「"最初"って 」
記憶が曖昧になってしまっている、"きっかけ"。
これだけ七海が困っているという事は、やはり自分が何か彼に無理を強いたをしたのでは、と
要は背筋が冷たくなった。
「やっぱり憶えてなかったんだな」
「え?」
要が返事に窮していると、今度は七海が呆れた顔で溜息を吐いた。