scene.3

 夢を見ている。
 その夢の中で、志月は小さな子供だった。
 手に持っているのは、志月が初めて手にしたカメラだ。
 小学校の一年生くらいだった。
 親戚の誰かがくれた、工作キット。
 ボール紙で出来た手作りのカメラ。
 志月が自分で紙を切って、糊で貼ってレンズを入れて作ったものだ。
 それは極単純な造りのもので、レンズの奥にフィルムをセットして、取りたい対象物の前でレンズの蓋を五秒程開ける  そして閉める。
 閉めたら手動でフィルムを巻く。
 それも手動だから、失敗すると画がダブったり、フィルムがやたら無駄に巻かれていたりする。
 そんなもの。
 そのカメラで撮れる写真はみな不安定で、何処かぼやけていて、現実味が無かった。
 まるで、四角い窓の向こうに別の世界がある様な錯覚。
 現実と空想にまだ明確な線を引く事の出来ない、その頃の志月はレンズの向こうに在る世界に強く引き込まれていった。

  いつも、何かの期待に胸を躍らせてファインダーを覗いた。

  小さな窓の向こうに、冒険がある様に思っていた。

 けれど、そのささやかな冒険はある日突然終わりを告げた。
 ある日学校から帰ると、それは母の手で処分されていたのだ。
『他にするべき事はいくらでもあるでしょう』と彼女は言った。
 悔しい様な、哀しい様な、腹立たしい様な、そんな気持ちが身体の奥で膨れ上がるのを感じるのに、言葉にならなかった。
 冷静な様で何処かヒステリックな母親の、それが記憶に残っている最初の理不尽な行いだった。

 その後も、それに類した仕打ちは長く続いた。
 飽きる程繰り返され、気付けば、小学六年になっていた。
 母親の進めるまま、名門の私立中学へ進む事が決まろうかという頃だった。
 突如転機が訪れたのだ。
 兄の発案で、英国に留学する事になった。
 今思えば、それは束縛がエスカレートしていく母親から弟を解放してやろうという、兄の思いやりだったのかもしれない。
 英国での三年間。
 家を離れて過ごしたその時間は、志月にとって有意義なものになった。

 自由意志というものを手に入れた。
 それに対して、責任を貫く事を学んだ。
 その生活の中で、長い時間封じられてきた自分自身を呼び覚ます事が出来た。

 留学の期間は三年間。
 それは最初に決められた事で、動かしようもなかった。
 しかし、その期間が終わりを告げる頃、志月は一つの決意を固めていた。

  日本に戻ったら、高校は公立に進もう。

 今まで自分を縛り付けてきた世界から、少し離れてみる。
 母親とは揉めるだろう。
 父も反対するかもしれない。
 兄は、ちゃんと筋道を通して説明すれば分かってくれるはずだ。

 そして、帰国後。
 数ヶ月に渡る交渉の後、志月は都内の公立高校に進学した。

(そうだ。宏幸とは、入学式の時に知り合って、意気投合したんだ…)
 出席番号で振り分けられた座席。
 川島宏幸は志月の右隣の席だった。
 最初の遣り取りは、志月が転がした万年筆を宏幸が拾っただけの事だった。
 それを手渡され、礼を述べる。それだけだった。
 しかし、一目で志月は彼が好きになった。
 彼は、明るく社交的で、人も好い。
 いい奴だ、と心から思った。
 顔に出るのだ。計算というものは。
 宏幸は、自分の損得を計算している人間の顔ではなかった。
 彼とは、下らない悪戯を幾度も繰り出した。
 文化祭や、体育祭など、お祭り騒ぎには、いつも率先して馬鹿をしてみせた。
 何処からか広まった志月の出自を、宏幸は上手にフォローしてくれた。
 正直、私立の学校とは大分勝手の違う公立高校の仕組みに、幾度と無く戸惑う場面はあったのだ。
 それは、校則やカリキュラムだけではない。
 同じクラスの生徒達と、微妙に話が噛み合わなかったりするのだ。
 そういう場面で、宏幸は本当に上手に助け舟を出してくれた。
 クラスから浮き立たない様に。悪目立ちしない様に。
 楽しい一年だった。

 楽しい、一年だった。


  その先は?

 真っ暗だ。
 何も見えない。
 志月は、薄暗い十字路の真ん中に立ち尽くしていた。
 自分が歩いた道が、分からない。
 不意に、風が吹いた。
 背中を押す様に。
 何か、声が聞こえる。

(風の…声?)

 先へ進め。そう聞こえる。
 思うまま、先へ進め。

 薄暗い道。志月は足を前に進めた。
 真っ直ぐ、前を見た。
 遠くに、誰かが立っている。

(誰だ?)

 風は止まない。
 ひたすら前へ。前へ。
 その誰かが、手を差し伸べている。
 遠すぎて見えない。その顔が微笑んでいる様に感じた。
 歩け。
 歩け。
 立ち止まるな。

 答えを、掴め。

 志月は、風の声に背を押されながら、ひたすら歩き続けた。

 前へ。
 前へ。

 前へ。

      の、待つ方へ。

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