しかし、そんな感傷など、目の前の人物の前では何の意味も持たなかった。
母にとっては他人は全て器物でしかない。
己が子でさえも、持物としか見れないのかもしれない。
そこに、独立された自我がある事さえ理解する事が出来ないのだ。
ふと、志月は意地の悪い質問を思い付いた。
「では、反対にお訊きしたいのですが 正直な処、私自身どういう理由で彼を手許に置いているのか知らないのです。
もしご存知であれば、それをまず知りたいと思うのですが?」
どうせ、何も知らないで言っている。
いつも、何も知らないまま志月に封じる事ばかりを強いてきた母だ。
きっと、今回も同じだろう。
そう決め付けていた。
だから、これは母に対して、事情を知らせなければ納得しない。そんな脅迫文を突きつけたつもりだった。
「忘れている事というのは、往々にして憶えておく必要の無いもの 追及すべきではございません」
僅かに逡巡して、母はそう答えた。
その言い方で志月は気付いた。
意外な事に、彼女は何かを知っている。
屁理屈のつもりの一言が、意外な方向へ転がった様だ。
「母さん、何か知っていますね?」
すかさず問いを重ねる。
ここまで隙を見せなかった彼女の目に、戸惑いの色が揺れた。
「納得しない限り、こちらから引きませんよ」
更に一押し加えた。
意外な処から、真実が引き出せるかもしれない。
志月は、思わず身を乗り出していた。
「 とにかく、よく考えて頂戴。
このままでいても、いい事なんて一つもありませんよ」
ところが、彼女はすぐに自分の動揺を棚の奥へ仕舞いこんでしまった。
煩そうに志月の追求を払い落とし、こちらが二の句を次ぐ前に彼女は腰を上げた。
そして、結局は肝心な事を何も言わず、そそくさと病室を出て行ってしまった。
何故話したがらないのか、些か不思議に思う部分もあった。
母らしからぬ反応だった。
心に決めて話をしに来たならば、こんな風に中途半端に引く様な人間ではない。
それは、志月が一番良く知っている事だ。
それが、半ば逃げる様に立ち去るとは
「しかしまぁ…今日の処は、とりあえず時間ぐらいは稼げたか」
志月は母親の去った後のドアを見つめて嘆息した。
そこには沈黙が依然として横たわる。
またしても、志月の手許に後味の悪い疑問だけが残った。
これまでに、佳月と宏幸 二人から聞いた話は何れも細切れの情報ばかりだった。
要約すると分かっているのは、
「大学生時代」に
「旅行先の大阪」から
「拾って帰ってきて」
「桜川の家」で
「一緒に暮してた」事だけ。
佳月は、「法律相談には乗ったが、その他の事は聞いてない」と言い、宏幸に到っては、「何年かぶりに家を訪ねたら一緒に住んでた」と言い放つ始末。
そして、肝心の当人 忍は一切何も話さない。
折に触れ、それとなく話は振るのだが、先の二人が寄越した情報と同じ内容をより簡潔に述べるのみであった。
(それだけじゃ、分かる訳ないよな)
志月の憂鬱を映したような、窓の外の曇天。
考え込んでいる間に、太陽はすっかり暑い雲の向こうへ姿を隠してしまった。
蛍光灯の光が窓で跳ね返り、窓ガラスは鏡の様に室内を映していた。
志月は、そこに薄っすら映った自分の姿から目を逸らす。
鏡の向こうに映る自分の姿に違和感を憶えるからだ。
空白の十年間が確かにそこに存在する事を思い知らされる。
それは家族や友人と会っていても同様だった。
皆、意識してそうしているのではないのだろうが、過去に起こった様々な事件を志月に聞かせようとする。
何とか記憶の扉を開こうとするかの様に。
志月自身もまた相手を落胆させまいと、無理にそれを抉じ開けようとする。
けれども、結局の処、無理矢理思い出そうとしても頭痛がするばかりで、むしろより固くその扉は閉ざされてしまうのだ。
志月はその繰り返しに正直相当消耗していた。
反対に、忍と会っていると安心した。
それは、十七歳まで記憶が遡ってしまった志月にとって、忍だけが気持ちの上での同年代だからというのが一つ。
唯一同じ目線の高さで話が出来る相手である事。
もう一つは、彼が相手に対して水の様に柔軟に受け止める感性を持っている事だ。
彼は自分からは何も話さない。
また、志月に対して何も問わない。
志月から何かを問えば、短く簡潔に答えるだけだ。
一見それは素っ気無い様にも思ったが、腫れ物でも触る様な周囲の人間の反応に些か疲労を感じていた中では、却って気楽だった。
何も持たない自分をそのまま受け容れてくれる。
ごく自然に自分自身を受け容れてくれる相手。
今の志月にとって、忍はそんな存在になりつつあったのだ。