scene.1
びいどろを吹く音に良く似た、小さな破裂音が耳の奥で弾ける。
断続的に続くをその音が、忍を眠りの淵から引き上げた。
病室に設置されているオイルヒーターの温まる音が、その正体だ。
この音によく睡眠の邪魔をされるのだが、目が醒めた途端音が小さくなった様に感じるのは何故だろう。
真夜中、とうに消灯時刻を過ぎた病室内は真っ暗だ。
カーテンを閉め忘れた窓の外で、赤い光が規則的なリズムで揺れている。
救急車が入ってきた様だ。
忍の病室は、この病院の救急搬送口の真上にあった。
その為、誰かが搬送されてくる度に、救急車の回転灯の光が窓から部屋を照らすのだ。
(この光の所為…だ)
部屋の天井を赤く染め、ゆらゆらと明滅する赤い光。
それは、目を覚ます直前まで見ていた夢の中で見たネオンの光ととてもよく似ていた。
(変な夢…)
毒々しい光を放っていた赤いネオンを浴びながら、必死で何かか逃げていた。
何から逃げていたのか、何故逃げていたのか、まるで分からない。
ただ、夢の中と区別のつかない赤い光に照らされている事が落ち着かず、とりあえず病室を出る事にした。
五分も間を置けば、救急車もなくなるだろう。
なるべく物音を立てないように、そっとドアを開け、病室を出た。
静まり返った夜の院内は、青みを帯びた闇と静けさに包まれている。
忍が、昨年末の火事でこの桜川救命救急センターに搬送されてきてから、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしていた。
夜中に病室を離れてうろついているのを看護師に見つかると、間違い無く叱られる。
忍は、ナースステーションと反対の方向へ足を向けた。
辿り着いた先は、病棟の最奥の喫煙スペースだ。
忍は煙草を吸わない。
しかし、こうやって深夜に目が覚めてしまった時などには、よくこの場所を訪れた。
「これで、煙草のにおいがしなければ言う事無いのにな…」
壁の色が変わるほどヤニの染み付いたその場所は、誰もいないこの時間でさえ、煙草のきついにおいがした。
(…喫煙所で、煙草のにおいを気にする方ががおかしいんだけど)
自分で自分の言葉がおかしくなり、忍は小さく笑った。
入院してから、忍がこんな風に真夜中目を覚ます事は、決して珍しくなかった。
何度も繰り返す奇妙な夢。
それが、忍の睡眠を喰い荒らしていた。
赤いネオン灯の下を、何者からか必死で逃げる夢を見る。
憶えている範囲では、忍にそんな記憶は無かった。
「夢判断でもしてもらったら、何か意味が分かるのかな…」
夢の中で起こるその逃走劇の為に、目覚める頃にはくたくたに疲れていた。
その夢は、救急車の回転灯に触発されて現れる事が多い。
(でも…困ったな。これじゃちっとも眠れない…)
自らの膝に肘を立て、忍は頬杖を衝いた。
「お、や…? 誰かと思ったら忍ちゃんじゃないか」
突然、頭の上から男性の声が響いた。
「えっ!? あ、小田切先生…っ」
顔を上げると、そこには忍を担当している外科医の小田切が立っていた。
当直の様だ。
「駄目じゃないか、ちゃんと休まなきゃ。退院できなくなっても知らないぞ」
小田切は大袈裟に肩を竦めて、形式的な注意を忍に与えた。
「あ、はい。すみません、すぐに病室に戻ります」
慌てて席を立とうとすると、小田切に止められた。
「なんてな。別に俺も叱りに来た訳じゃないから。 コレよ、コレ」
ニヤリと笑って、小田切は白衣の胸ポケットを示す。
「ああ、煙草…ですか?」
忍は、上げようとした腰を再び椅子に戻した。
「そうそう。急患入ったんだけど、まぁ、大した事なくて済んだんでね。起こされたついでに一服すっかな、と思って」
小田切が、すとん、と忍の横に腰を下ろした。
「また、師長さんに怒られるんじゃないですか?」
忍は苦笑いしつつ、患者の隣で堂々と煙草に火を点けた主治医に目を遣った。
「今はいないから大丈夫。それより、忍ちゃんがこんな時間にこんな所でぼーっとしてる方が問題だぞ。もし寝付けないんだったら眠剤を処方しようか?」
さほど熱心でもない声で、小田切が言った。
「いえ、眠れないほどでも。さっき救急車が入ってきた時の光に目を差されて目が覚めただけなんです」
「ならいいけどな。眠れないってのは、意外とバカにならんのよ」
そんな風に言いながら、彼の声音は実にのんびりしている。
やたら四角四面な人物より、忍にはこのくらいの方が気楽だ。
「搬送口の真上だもんな、忍ちゃんの病室。もっと早く言ってくれれば良かったのに。今更だけど、部屋替えするか?」
「いえ、もう後三日で退院ですから」
忍は、小田切の申し出を丁重にお断りした。
「でも、救急車の"音" じゃなくて、"光"で目が覚めるんだ?」
普通なら音の方が遥かに睡眠の妨げになりそうなものだ、と小田切が首を傾げた。
「いや…それは」
正確には光が眩しくて目が覚める訳ではない。
あの赤い色に触発されて妙な夢を見てしまう為に、目が覚めるのだ。
しかし、外科医の小田切を捕まえて夢の話などしたものかどうか、忍は一瞬躊躇った。
「何事も、退院後に引きずるのは良くないぞ。悩み事なら先生に言ってみな? 急患が入らなきゃ相談に乗れるから」
小田切がそう言ったので忍はとりあえず夢の話をしてみる事にした。
「 なるほどねぇ…赤い色、そして逃げる夢、か。それで、救急車の回転灯が気になる訳だ。普通なら、何かトラウマでもあるのか疑うところなんだけど…でも、記憶に無いんだね?」
小田切の問い掛けに、忍は無言で頷いた。
夢に現れる幾つかのキーワードを並べてみた。
「ま、一般論だけど、何かから"逃げる夢"っていうのは、自分が何かに追い詰められていて、そのストレスが夢に現れているとか 反対に、実は追ってくる相手に捉まってしまいたい…つまり、いっそ"得体の知れない恐怖"に捉まってしまう事で、その正体を知りたい、そういう欲求の表れとも聞くけども、その場合 」
小田切が更に話を続けようとした時、突然割り込んできた声にそれは遮られた。
「小田切先生、急患ですよ!」
看護師が仁王立ちで小田切を睨んでいる。
「スマンスマン、すぐ戻るから」
たいして済まなくなさそうな声に、看護師は更に顔を引き攣らせている。
のんびりとした動作でまだ少し残っている煙草を揉み消し、彼は立ち上がった。
「それじゃ、話が半端になってスマン。また、今度な。ちゃんと部屋帰って寝るんだぞ」
そう言い残して、小田切は去っていった。
忍も、すぐに立ち上がり、自分の病室に向かって歩き出した。
病室に向かいながら、忍は小田切の言葉を反芻していた。
彼が挙げた例のうち、後者の方が忍の心に引っ掛かるものを持っている様に感じた。
"得体の知れない恐怖"に捉まってしまう事で、その正体を知りたい。
"得体の知れない恐怖" 何かに対して自分がそんなものを感じているとしたら、それは、自分自身に対してだろう、と忍は思った。
志月と出会う前の自分を、忍はあまりはっきり憶えていないから。
自分自身が何処の誰だとか、家族の事だとか、今となってはそれを知る術も無い。
自分が自分の事を知らないというのは、とても心許無い事だと思った。
(志月は、今頃どうしているかな…)
火事の為に、記憶の一部を失ってしまった彼は、今頃どうしているのだろう。
やはり、とても心許無い気持ちを抱えているのだろうか。
志月は今、忍とは別の病院に入院中だ。
あの時、志月だけは彼の実家が経営しているという病院に搬送されたからだ。
忍が、自らの病室のドアを開く頃には、窓の外に赤い光はもう無かった。