除細動に成功し、危機的状況はとりあえず去った。
「じゃあ、エピネフリンを静注で一分間に1mgずつ入れて、三分間。研修医、今のうちに表皮の裂傷を縫合して。…と、針、持てるか?」
傷口や術式によって開かれた箇所を縫合するのは、基本的に要の仕事になっている。
しかし、七海はいつもどおりの指示を出してから、噛み付かれた右手の指を思い出したらしい。
「ちょっと痺れてますが、折れてはなさそうです。無理だと思ったら、無理せず交代してもらいます」
ひらひらと右手を振りながら、要は、少しだけ強がってみせた。
「…そ、か。分かった。じゃあ、お前に任せる」
そう言って、七海が患者から離れた。
「小沢さん、縫合始めたいんで、麻酔の確認と輸液の監視をお願いします」
目の前に残った小沢に声を掛けた。
「あいよ。傷口がどこか、マッピングできてるんだろうな? 遠藤ちゃん?」
もう小沢も、いつもとかわらないのほほんとした麻酔医に戻っていた。
「ハイ。とりあえず縫合が必要な箇所は 」
要は、搬送直後の診断時に見つけた負傷箇所を告げた。
「ほぉ、優秀優秀。んじゃ、麻酔の調整と行きますかぁ」
約十秒後、小沢が親指を立てた。
「おっけーよん。患者さん、スタンバイ」
小沢のゴーサインが出たので、要は早速縫合を始めた。
「小沢先生、やっぱり珍しいです…よね? 患者に噛み付かれたなんていうのは」
「んー。別にそう珍しい事じゃないんだけどね。病棟の看護師なんか、痙攣起こした患者さんによく噛まれるらしいよ。うちじゃ珍しいけど」
「やっぱり、あんまりしないミスなんですね…」
要はがっくり肩を落とした。
「いや、別にミスじゃないから。それでも、一般的にショックから心室細動、それに伴う痙攣っていうのは、割合起こりやすい症状ではあるから、頭に留めておくといいと思うよ。
ただ、まぁ…今日の遠藤ちゃんは、何か集中力が落ちてた気がするけどねぇ。連勤続いてたから、疲れちゃったかな?」
小沢に、集中力の低下を指摘された。
「すみませんでした」
結局、気持ちを切り替えられたつもりだったのが、切り替えきれていなかったのだ。
だから、知識の上では繋がっているものが、全く活用出来なかった。
「それにしても、"除細動掛けてくれ"ってな、スゴかったねぇ、遠藤ちゃん」
要が縫合している様子を、小沢が目の前で興味深げな顔で眺めていた。
「え…!? あ、恥ずかしくなるので、言わんで下さい。あの瞬間は、頭が真っ白で他に思い付かなかったんすよ。」
「いやいや、大した新人もいたもんだと思ってなー。あの七海ちゃんをビビらした研修医なんて、初めて見たわ、俺」
小沢がにやにや笑っている。
「別に…ビビらしたかった訳じゃないんすけど」
要は、面白くない、という顔で小沢を睨んだ。
「まぁまぁまぁ。いやー、今日は珍しいモン見たなぁ。
ここ、大丈夫そうだし、俺機器類の片付け終わったら後ろに引っ込んでるからね。何かあったら呼んで」
果てしなく暢気な口調でそういうと、麻酔医の小沢は救急カートとME機器の後片付けを始める。
いつの間にやら、オペ看の田島や、七海の姿もなくなっている。
とりあえず患者は生命の危機から脱し、ERの空気は急速にクールダウンしていった。