「遠藤」
途方に暮れそうになった要に、医局長が声を掛けた。
「はい?」
「これでも俺は、お前の事はそれなりに買っているつもりなんだぞ」
医局長はそう言って笑った。
「そうなんすか?」
意外な評価に、要は少し驚いた。
「お前さんは仕事に身体を張れるタイプだと踏んでるんだ、俺は」
「は?」
「何の根拠も無い、ただのカンだが」
医局長が、意味ありげに口を歪めて笑う。
今のところ、将来どうするかという事を、要はあまり具体的に考えていなかった。
「常盤木もそれは感じてるはずなんだがな。俺としては、お前さんがERに残って、いずれ常盤木を支えてくれりゃぁ重畳だと思ってるんだ。
そうしたら俺は安心して上を目指せる。おそらく、俺の次に医局長になるのは常盤木だからな」
医局長はそう言うと、企み顔で笑った。
「まぁ、話が随分横道に逸れてしまったが、要するに、ちゃんと二人で話し合えって事だな。
明日こそ常盤木も休ませるつもりしてるし、ポケベルも切らせとくから、一回きちんと向き合って話せ。遠藤もオマケで非番にしておいてやるから」
そう言いながら、医局長は要の肩ぽん、と叩いた。
「ありがとうございます」
医局長の意図はよく分からなかった。
ただ、会話の端々から、七海は研修医とコミュニケーションを取るのが苦手な様だ的なニュアンスが、何となく伝わってきた。
(のっけから"イジメられたか?"って訊くくらいだもんな)
しかし、どんな理由であれ、医局長のこの計らいは、要にとって実に有り難いものだった。
この機会を逃したら、きっとまた要は七海に何も訊けなくなってしまうだろう。
ここで仕事を続ける上でも、プライベートのもやもやはなるべく晴らしておくべきだ。
「なぁ、遠藤? おまえ、そんなにアイツに名前憶えて欲しいのか? やたらムキになってるよな」
どう見ても煮詰まっている様子の要に、医局長は呆れ口調で質した。
「は? あ、いえ、そんなでもないですが」
妙に鋭い質問に、要は一瞬狼狽えた。
「負けん気ってヤツか? しかしお前さんも惚れ込んだもんだなぁ。一体常盤木のどこら辺が良かったんだか」
医局長が首を傾げる。
「は…っ!?」
要の背筋が冷たくなった。
(本当は、既にバレてんのか…!?)
確かに、勘の良い医局長なら気付いていても全く不思議は無い。
実は本当にそういう意味で計らったのか、と要の顔が蒼白になる。
「 ? 惚れてんだろ? 医者として」
明らかに動揺している要に、医局長が不思議そうな顔をした。
(全くもう、この人はーっ。紛らわしい言い方すんなよ、驚いたっつの。…何だ、医者として、か。そうだよなぁ…うん)
今の紛らわしい一言のおかげで、要は一瞬にして汗だくになってしまった。
「そうですね。確かに、尊敬してますよ」
要は、背中を伝う冷や汗を押し隠しながら、なるべく普通に答えた。
「わからんなぁ…。確かに、医師としてはこの上なく優秀だが、指導医としては、はっきり言って劣悪だぞ、アイツは。
名前は憶えないわ、言葉はキツイわ、無茶なシフト組ませるわ…。アイツに当たった研修医のほとんどは一週間でネを上げるぞ。
指導医としてはよっぽど俺の方がデキがいいと思うんだがなぁ。どうよ、遠藤」
医局長が合点のいかない顔で首を捻っている。
「ははは。でも俺、医局長の指導はほとんど受けてませんからね」
「そりゃ、違いない」
要の切り返しに、医局長は咽喉を鳴らして笑った。
しかし要は、軽口で返しつつも、確かに医局長は人を導くのは上手だろう、と感じていた。
実際、医局長と話しているうちに要の気持ちは大分整理されてきていた。
人の心に鋭く切り込んでみたり、宥めすかしてみたり、こうやって冗句で和ませたり、飄々としているが、そのリードは常に的確だ。
「まぁ、そのくらい食い下がってくれるヤツが、常盤木には必要だとは思っていたし、良い事だ」
彼は、最後にそう言ってこの話を締めくくった。
「お、もうすぐ日勤終了だ。常盤木が戻ってきたらカンファレンスするか。それにしても、遅いな、アイツ。また教授にとっつかまったかな」
医局長が溜息を吐いた。
教授という単語に、要の心臓が跳ね上がった。
("また"って言ったよな。渡辺教授の気に入られているのは、確かみたいだ)
七海が教授の愛人だという噂は、本当なのだろうか。
(もしそれが本当だったら、俺は…)
薄暗い気持ちが要の胸中に広がった。
その時、医局のドアが勢い良く開いた。
「ただ今戻りました。 あ! また僕の言う事を聞いてなかったのか、お前は。寝てろって言っただろ」
七海だった。
入室するなり、彼は要の後頭部に平手を食らわせた。
「痛いですよっ!」
「ちゃんと言いつけ守らないから、おしおき!」
ふんっと、腕組みをして開き直られた。
(おしおきって、子供じゃねぇっつの…)
とほほな気持ちで、要はがっくりと肩を落とした。
「常盤木、常盤木、あんまりイジメるな。俺が仮眠室から引っ張り出したんだ」
医局長が横からフォローを入れた。
「医局長、駄目じゃないですか。当直の人間はちゃんと寝かしておかないと」
一瞬で矛先は医局長に向いた。
七海は、例え自分より立場が上の相手でも遠慮なく説教するらしい。
(おいおい、医局長まで子供みたいに叱るなよ…)
心の中で突っ込みつつ、自分だけが子ども扱いではない事に一応、安心する。
「まぁまぁ。それより常盤木、明日こそオフだからな。コールも切れ。そして、そこの研修医をオマケに付けてやるから、ゆっくりして来い」
医局長の言葉に、七海が目を丸くしている。
「は、い…? 何言ってんですか、医局長!? いっぺんに二人もオフにしたら現場が 」
「言ったまんまだ。お前ね、遠藤に休める時は休めって指導してるんだろうが。
そのお前が休まなきゃ、お前の下で研修してる遠藤がまともに休める訳無いだろう? 明日はオフ! ポケベルもオフ! これは業務命令だ」
「でも、 」
「でも、じゃない。もともと研修医なんざ、シフト組む時から数に入れてない。お前も今日で半月も連勤してるだろう。
いい加減集中力が切れる時期だ。そういう勤務体制がミスを誘発するんだぞ。それに、お前は遠藤の指導医だろうが?
じっくり話するのも指導のうちだ。こっちはさすがに勤務中に時間作ってやれんから、オフを使ってやれっつってんだ」
医局長の強い口調に、瞬く間に先刻と立場が入れ替わった。
こういう時の彼に逆らえる者は、医局内にはいない。
「う……」
さすがの七海も医局長に気圧され、言葉を詰まらせている。
「第一、お前が自分で指導医を買って出たんだろ? ちゃんとメンタルケアまで責任持てよ。ソイツを活かすのも潰すのも、常盤木 お前の裁量だぞ?」
「はい…分かりました」
今度こそ七海は何も言い返さなかった。
(つか、何だって!? 指導医、俺はてっきり割り振られたから嫌々引き受けてるんだと思ってたぞ…。自分から買って出たなんて話、全く知らなかった)
要は心底驚いていた。
そのくらい、指導医として紹介された時の七海は不機嫌だったのだ。
「ま、そういう事だ。この話はこれで終わり。
それじゃ、日勤帯から夜勤帯へ引き継ぎ及びカンファレンスを始めるぞ」
七海が納得したのを確認し、医局長はカンファレンスに移った。
何はともあれ、七海と話し合うのは明日の当直明けまで持ち越しだ。
何とか気持ちを切り替え、要は勤務に臨む体制に入った。