scene.4

 繰り返し、車窓にぶつかっては真横に流れる雨粒。
 濃い灰色に沈む街。
 滑り出した電車、昌弘は閉じたドアの前にそのまま立っていた。
 帰宅ラッシュに逆らって都心に向かう路線であった為、車内はさほど混雑していなかった。
 この大雨に、乗客のずぶ濡れ加減は皆似たり寄ったりだ。
 人は濡れると気力が殺がれてしまうのか、車内はただ静かなだけではなく、妙に沈鬱な空気に浸されていた。
 昌弘は、ドアに嵌め込まれた硝子を指で擦った。
 そこに映るのは、蛍光灯の光に青白く反射した彼自身の顔であった。
 何と惨めな顔だ。
 情けなく濡れそぼり、目ばかりぎらつかせた負け犬が、そこにいる。
 自信の輪郭を指で引き、昌弘は自らの鏡像を嘲る様に見遣った。
(お前は、負け犬や。打つ手打つ手は全て後手。守るべきものは守れず、全て、後一歩及ばず  何度もその繰り返しやないか)
 朝、玄関先で別れた時の顔が目蓋の奥に蘇る。
(家から出るな、て言うべきやった)
 一度は手許に引き寄せておきながら、みすみす池垣の手中に渡してしまうとは悔やんでも悔やみ切れない。
 彼が狙われているのは、自分が一番分かっていたのに。
 水野千里の級友とやらが撮影したと言う携帯写真を見るまでは、或いは彼が自ら姿を消した可能性も考えていた。
 しかし、今となってはどちらの仮定が現実なのか明白である。
(としたら、問題はどのヤサへ引っ張ってかれたんかが問題やな)
 池垣の手に落ちたならば、おそらく彼の身柄は解体屋に引き渡される事になるだろう。
 いや、もう渡っているかもしれない。
(昔の契約も生きとるうやろし……)
 過去の話とは言え、忍は一度彼に売り渡されている。
 池垣にとって、解体屋との契約を反故にするのは得策ではないはず。
 それに、解体屋が求めるならその手に委ねるのが一番安全な処分方法でもある。
 何しろ、一度彼の手中に落ちたものは、まず原型を止めてその手から逃れられる事は無いのだから。
 あの手の偏執的な人間は、己の欲望が満たされている限り、課せられた役割に忠実だ。
 狂いの無い精密機械の様に、自らの欲求を満たし、組織に対する役目を果たすだろう。
 だからこそ、解体屋は池垣にとって切り札なのだ。
 そもそも、ただの売買春の延長でしかなかった池垣の商売を臓器密売にまで拡げたのも解体屋。
 彼の下で『商品の解体』を行っている技術屋達も彼の伝手。
 その市場を大陸の黒社会への足掛かりとして導いたのも  
 一度は壊滅目前まで追い込まれた池垣を個々まで引き上げたのはあの男である。
 そして、それが池垣の地盤になった。
 高仁会の中で池垣がのし上がる事が出来たのは、経済的に頭打ちになりつつ合った組の中で、巨大な金を生み出す市場を切り拓いたからなのである。
 その恩義  と言うより弱味なのかもしれないが  さしもの池垣ですら彼の正体は追求しない。
 通称『解体屋』。ただそれだけ。
 本名も、年齢も、国籍すら不明のままである。

 それにしても、と昌弘は溜息を吐く。

  処分やて。我ながら呆れるわ)
 ふと、我に返った昌弘は、苦い顔で硝子に映る自分の顔を睨んだ。
 どちらかと言えば、『こちら側』の方が水に合う。
 それ以来、ずっとその中で時間を過ごしてきた。
 正直、居心地は悪くない。
 当然と言えば当然だ。
 昌弘自身、生まれた時からその水を飲んで育ってきたのだから。
 所詮、高潔な正義など馴染まない。
 不動一馬と組んだのは、池垣が昌弘にとって仇だったからだ。
 しかし、今になって思う事がある。
(……そもそも、仇て誰なんやろう)
 直接火を放ったのは、池垣だ。
 しかし、その根本には、組を壊滅に追い込まれた危機がある。
 
 火を放った池垣か。

 それとも。

(その窮状に追い込んだ奴…か)

 後少し思考を深くしたなら、昌弘は這い上がれない深みに嵌る処であった。
 しかし、寸での処で一本の電話がそれを遮った。
「……なんやねん、オッサン。俺、今電車ん中や!」
 マナーモードにし忘れていたのも、タイミングとしか言い様が無い。
 音を消していたら、きっと取らなかっただろう。
 そして、下車を待ったなら連絡を取らなかったかもしれない。
『お、そやっな。悪い悪い』
 全く悪気のない声が帰ってくる。
「ほんの十分前、移動するて話したとこやんけ!
 老化現象か!
 メール使えゆうてるやん!」
 そう悪態を吐きながら、昌弘は何処かでホッとしていた。
 危なかった。
 もう少しで自分を見失う処だった。
『面倒やんか、メール。
 相手が読んだかどうかも確認出来へんし!』
「そんなんで、若手とやってけてるん?」
 やれやれ、と溜息が洩れる。
『現場じゃ俺がルールや、ほっとけ! 
 まあそんな事はどうでもええわ。お前の幼なじみが引っ張られたヤサが割れたで』
「何やて!?」
 思わず声が高くなってしまった。
 何事かと、周囲の人間が昌弘を振り返る。
『お前がトモダチにもらった写真、大したお手柄や。
 Nシステムに見事引っ掛かっとった』
 警察庁によって随所に設置されたTVカメラが、全ての車両の移動を記録し監視するNシステム。
 忍を連れ去った車は、どうやらこれに引っ掛かってくれたらしい。
「へえ……ダメモトやと思ててんけどな」
 直接の撮影者は別人物だが、結果、水野千里の行動は的を貫いたのである。
 彼は、妙に運が良いと言うのか、ツキを持っているようだ。
  これはイケるかもしれんで』
「それで、どこや? 俺はどこ向こたらええ?」
『まあ、待て。いきなりお前が現れたら怪しいやろ』
 それは確かに一馬の言が正しい。
 昌弘に、組側から忍の件に関する連絡は未だ来ていない。
 どの段階からマークされていたのか分からないが、昌弘と彼の関係は池垣はもとより古参の構成員になる程知る事実で、何の報せも無い処へ昌弘がいきなり現れれば、疑わしく思われない訳が無い。
『そこで、や。オッサンからちょっとした提案なんやけどな  
 昌弘、ここらで手を引け。その足で警察に保護してもらえ。連絡は入れといたる』
 余りにも予想外の言葉に、一瞬頭の中が真っ白になった。
「何を……」
 滅多に詰まる様な事の無い口が、次の言葉を見つけられない。
『潮時や。これ以上は危な過ぎる。
 後は大人に任しとき。
 今なら急襲すれば池垣を叩ける。
 お前の幼なじみも助ける。大事な証人や、死なせへん。
 そやから、お前はここで手を引け』
 いつも何処か軽妙な調子で話す一馬が、この時ばかりは重量感のある声でいった。
「何やねん、それ…。
 今更そんなんナシやろ」
『ここまでや』
 その声は、昌弘の耳を柳の枝の様にぴしゃりと打った。
 一馬は本気だ。
 このままでは、自分だけが蚊帳の外に置かれてしまう。
 自分自身もまた、水野や北尾を蚊帳の外に追い出して、ここにいる。
 意地も、責任も、何もかも引っ被ってここにいる。
 何より、この最悪の事態を招いたのは自分の不注意だ。
 だからこそ。
 昌弘は大きく深呼吸した。
「引かれへん。
 ここで俺だけ追い出してみ、警察の情報、池垣に逆輸入するで」
 このとんでもない脅し文句に、今度は電話の向こうの相手が押し黙った。
『現役の刑事脅迫するか  とんでもないクソガキやな』
「そのクソガキと組んだのは、オッサンやろ」
 諦めて場所を教えろ、と昌弘は一馬をせっついた。
 そして、ゆうに一駅分の溜息と唸り声の果てに、遂に彼は突き止めた潜伏先とやらを吐いたのだった。

 一馬との通話を切り、改めて窓に映る自分の姿を見つめた。
 薄暗い鏡像は、まるで死相の様だ。
 本当に殺されるかもしれない。
 それでも、逃げたくはなかった。
 何もかも奪われっ放しで、逃げ出すのはもう御免だ。
(ここらで負け犬は返上や)
 犬死にと負け犬。大差は無いかもしれないが、それなら真っ向から戦ってやる。

 昌弘は、空の拳を強く握った。

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