scene.2
吹き付ける雨が、強く窓を叩いている。
昭和の遺産とも言うべき古ぼけたビル、その7Fに東洋図書社の社会部はあった。
立ち込める煙草の煙で一寸先が翳む程のその部屋は、どうやらヘビースモーカーの巣窟らしい。
「ウチも大概だが、ここは一際酷いな」
溜息混じりに宏幸がごちる。
彼の職場は社会部の二階下、文化部だ。
幾重にも折り重なる煙の合間から垣間見えるのは、雑然と積み上げられた紙の束が柱の様に何本も連なっている様。
何が入っているのやら見当もつかない紙袋が床を埋め尽くし、そのまた上に帰宅する間もないであろうスタッフの着替えの山が堆く積み上がる惨状。
(これは、戦場だな)
あまりの混沌ぶりに、内心呆気に取られているのだが、そんな事は顔に出す訳にもいかず志月な黙って宏幸の後に続いた。
「おーい、こっちだよー」
呑気な声が二人を呼び止める。
声のする方へ目を遣ると、紙束の柱の頂から浅黒い腕が二人を手招きしていた。
その手に導かれるまま部屋の奥へ進むと、窓を背に、椅子の上で胡座をかいている一人の男がいた。
「やあ、どーもどーも!
むさ苦しいところでアレですが、どうぞお掛け下さいな」
丸眼鏡に良すぎる愛想が少々胡散臭い、小柄な人物だ。
「初めまして、社会部の長倉です。どうぞよろしく!
川島君から話は伺ってますよー。何でも情報提供していただけるとか!
いやあ、有り難いなあ」
彼 長倉の手から素早い動作で志月に名刺が手渡された。
「初めまして 」
名刺交換に応えて自己紹介に開きかけた志月の声を、長倉が遮った。
「知ってますよー、カメラマンの東条さんですよね!
昨秋発刊された中東の特集記事、拝読させていただきました。
報道一辺倒な社会部とはまた違う一面ってヤツを見せて頂き、こりゃ一本取られたなぁとか思っちゃいましたねぇ」
どうも過去の仕事の話のようだが、当然ながら記憶に無い。
「…それはどうも、有り難うございます」
何と返してよいか分からず、志月は曖昧に返事をした。
「おい長倉、こいつはフォトグラファーであってカメラマンじゃないし、あれも記事じゃなくエッセイ 」
微妙にニュアンスの違う二つの肩書きを訂正をしようと口を挟みかけたところ、長倉が更に言葉を被せてそれを遮った。
「それで、畑違いの文化部さんが何だって僕のところに?
ってところから、お話お伺い出来れば有り難いんですけどねぇ。
ねぇ? カメラマンに転向するかもしれない、東条さん?」
和やかなれど鋭い視線が、志月に注がれる。
志月は宏幸の腕を小突き、一歩後ろに下がった。
「おい、去年の中東の記事って何だ!?
気の所為でなければ長倉さんの目、笑ってないぞ!
もしかして何かトラブルでもあったのか!?」
声を潜めて長倉と自分の関わりを確認する。
「…お前、文化畑の仕事してる割に社会派色の強い文章を書いてたからな。
まあそれが、社会部の記事とよくバッティングしてな 」
つまり、間接的にだが、志月はこの長倉とネタの取り合いをしてたと言う事のようだ。
(それで妙に棘が…)
カメラマンとフォトグラファーは分けて語られる場合が多い。
カメラマンを依頼された写真を職業として撮影する撮影技師、フォトグラファー或いは写真家を作品として写真を撮る芸術家と分けて称するのである。
それははっきりと定義付けではなく、概ね自称 名刺に書かれる肩書きの使い分けであったり、依頼する側が便宜上使い分けているだけのものだ。
地べたを這いずる様に現実と真っ向勝負してる社会部としては、ひたすら己の世界を具象化する夢想に明け暮れている芸術屋がショバ荒らしにくるんじゃねえよ、と、長倉は志月に牽制を仕掛けてきた訳だ。
残念な事に、牽制された本人には全くその折の記憶が無い訳だが。
「どうかしましたー?」
長倉が笑顔を崩さず、宏幸と志月の間に割り入る。
「いや、何も!」
「何でもありません!」
慌ててそう答えたのは、ほぼ同時だ。
「そうですかぁ? まぁ良いですけど。
じゃ、サクっと早速情報交換と行きましょうか!」
そう言って、長倉が掌を打ち鳴らす。
「ま、ここじゃ座ってもらう事も出来ないんでね。
場所、替えましょうか」
言うが早いか、席を立った長倉は出口へと足を向ける。
志月と宏幸は、積み上がる荷物で必要以上に狭まっている通路を縫う様に抜け、彼の後を追った。
その途中、志月は気になった事を宏幸にこっそり訊いてみた。
「社会部の人間に領域を踏み込んだと敵視される様な、何を書いたんだ、俺は?」
先を歩く長倉とは、幾らか距離が空いていた。
「ああ 俺が直接担当してた仕事じゃないから詳しくは知らんが、どこかのNPO法人にくっついて、中東あたりの内戦とかテロとか、何かそういうの追っかけてたみたいだな」
「俺が…!?」
全く腑に落ちない。
世界の事など何も知らない、と言える程の世捨て人ではないが、撮影対象に選ぶものとして違和感は否めない。
確かにフォトグラファーと呼ばれる人達が全くそういったものに触れないかと言えば違う。
しかし、それは少なくとも自分が選ぶ題材としては適当ではない気がする。
「そうだな。言われてみりゃ、ありゃカメラマンの仕事って言われた方がしっくりくる内容だったかもな」
鬩ぎあう理想と言う名の欲望の間で、何もかもが壊されてゆく光景。
その現実を何度も何度も繰り返しフィードバックしては、焼き付ける。
芸術作品と呼ぶには、生々しかった と、宏幸は付け足した。
「俺は、何故そんなものを追いかけていたのか…」
「それは多分、背尾が 」
反射的に答えかけた宏幸が、慌てて口を押さえた。
しかし、滑った口から零れ落ちた一言で、何となく悟ってしまった。
「そうか 」
留学先で事件に巻き込まれて死んだと言う恋人。
その人の、死の理由。
「…弓香には言わないでくれるか。
俺はたまたま告別式で少し聞きかじっちまっただけなんだ。
あいつは、知らないから 」
申し訳なさそうに宏幸が言った。
「ああ、わかった」
親友だったと言う彼女を、今更傷付ける必要は無い。
だから、志月は極当然の事と頷いた。
それにしても、だからと言って義憤に駆られるというのもしっくりこない。
では何故そんな場所を選んで回ったのか
(捜していたんだ…多分)
奪われた、その人を。
暗示的な砂漠の夢と、それは一本の糸の様に繋がった。
砂漠に埋まった人形のパーツを、ひたすら拾い続ける夢。
そんな場所に、いや、世界中の何処にも、もういないと言うのに。
それでも捜し続けていたのだろう。
(そんな不毛な事の為に、忍を残して )
彼はおそらくそんな事も分かっていて
それでも黙って待っていてくれたのだろう。
今の彼を思うと、それは想像に難くなかった。
「何て、傲慢で身勝手なんだろうな 」
自嘲気味に呟いた志月の肩を、宏幸が軽く叩く。
「一刻も早く、捜し出そう。
それからだ。なっ?」
そうだ。
自己嫌悪に陥っている場合ではない。
無くなった記憶の断片はどれも角が鋭くて、心臓を包む薄い膜を容赦無く切り裂くのだけれど、それはどれもが忍の負った傷なのだろう。
「そうだな。取り戻さなければな それからだ」
そして取り戻す事が出来たら
そう思った瞬間、急にあの日触れた口唇の感触が蘇った。
両腕で抱きしめたい。
あの華奢な肩を、思い切り抱きしめたい。
他の誰でも誰でもない忍自身に、ただ触れたい
そんな思いばかりが溢れ出て、涙が出そうな気持ちになる。
(ああ、そうだ)
こういうものを、『切ない』と言うのだ。