赫い渇望

scene.1

 依然、雨足は弱まらなかった。
 真夏特有の大粒の水滴が、間断無く昌弘の肌を打つ。
 傘は持っていたが、横殴りの雨の前にはまるで役立たずの代物であった。
 昌弘は、川島家へ向かう途中である。
 目的地は、昌弘が借りた都心のマンションからかなり離れたところにあった。
 ただ遠いだけではなく、交通の便が悪いのだ。
 複数回の電車を乗り継ぎ、大きく迂回せねばならない。
(郊外型の住宅ゆうたら聞こえはええけど…不便なだけやないか!)
 全くあさっての方向に文句を付けつつ、昌弘は乗り換え先の駅に向かって歩を進める。
 二回目の乗り継ぎである。
 屋外に設置された連絡橋には風を遮るものがまるで無く、傘の骨は折れそうな程しなっていた。
「あークソ!」
 傘が受ける風の強さに、昌弘の身体は横へ引っ張られ、思うように前へ進む事が出来ない。
「もう傘なんかいらんわ!」
 昌弘は手に持っていた傘を、手近なゴミ箱に叩き付けた。
 どのみちずぶ濡れになるのは変わらない。
 それなら、少しでも身軽な方が良い。
 今は、僅か五分に満たない移動時間さえもどかしい。
 僅かでも前進を妨げるものが煩わしい。
 一秒でも早く、目的の場所へ辿り着きたかった。
(はよ行かんと…)
 また、間に合わない  かもしれない。
 昌弘が幸也の  忍の後を追う時、それは何時も間に合わないのだ。
 手が届きそうな距離に見えているのに、昌弘が手を伸ばすとそれは実は届かない。
 いつも、僅かの距離が届かない。

 今も。

 花街から出て行った時も。

 一緒に暮らしていた間でさえ。

 追うのはいつも自分の方だった。
 追いかけ、掴まえ、強引にこちらへ向かせて。
 その双眸に、自分の姿など映る事が無くても。
 何も映らない眸ごと、『幸也』だった。
 誰の手も届かない、閉じた匣。
 それこそが、彼だった。
(そんなもん、未だに追っかけとる俺は、大概しょうもないな)
 しかし、今なら  声が届くかもしれない。
 再会した時、もう自分の知っている『幸也』では無くなっていた。
 『忍』と言う新しい名前を与えられた彼は、もう何も響かない閉じた匣などではなかった。
 呼びかければ応え、意思を持つ、生身の人間。
 忍の匣を開いたのは、自分ではない。
 彼を外の世界と繋いだのは、別の人間なのだ。
 光も、音も、温度も、疵も、昌弘には、何一つ与える事が出来なかった。
 それ処か、昌弘が関わったりしなければ彼は今の様な事態に陥っていなかったかもしれない。
 もっと上手に、彼にそうとは分からせる事無く、ひっそりと危険から遠ざける事が出来たはずだ。
 情に駆られた自分の行いが、彼を危険に晒してしまった。
 そんな後悔が、昌弘の腹の奥に重く沈んでいた。
(弱っとるとこに付け入る  俺がしたんはそういう事や)
 自分にしとけ、などと口走ってしまった自分があさましくて仕方がない。
 見ていられなかった  それも本当だ。
 一方で、今ならもしかしたら自分の方を向いてくれるかもしれない  そう思ったのも事実なのだ。
 昨夜、昌弘が伸ばした腕を、忍は払わなかった。
 それを言い訳にして、途方に暮れた背中を引き寄せてしまった。
 そこに、彼の意思など何も無い事を知っていたのに。
 映すべきものを見失い、俯くしか無かった瞳の色が、焼き付いて離れない。
 余りにも力無い身体の感触が、腕の中にまだ残っている。
 それは、こんな形で昌弘が  いや、誰であっても触れてはいけないものだった。
 しかし、昨夜の自分の行いを恥じ入る暇さえ無く、またしても彼は掻き消えてしまった。

 このまま、終わらせてはいけない。
 もう一度、忍をあの『学生』の許に返してやらなくてはならない。

 無事に。

 そうして。

 そうしたら。

 もう一度、勝負するのだ。

 正々堂々と。

 真正面から。

 その視線の前に立ってやる。

 その為にも  
「せめて、反省ぐらいさせろや、あのアホ!」
 昌弘の声に驚いた親子連れが、飛び退く。
 周囲を歩いていた何人かの通行人も、何気なく、かつ素早く昌弘から距離を置いた。
 その時、連絡橋の向こうに、郊外へ向かう車両が滑り込むのが見えた。
「あの電車やな」
 一本逃すと、次の電車は二十分後。
 今は一秒も無駄に出来ない。
 昌弘は、更に歩速度を上げる。

 雨足は尚強く、停車中の車両は水煙に翳んでいた。

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