scene.5
微かな金属音が、不意に耳を掠める。
扉の蝶番が軋む音。
空気が動く気配。
室内に侵入してくる、湿気を含んだ生温い風。
そして
(この、匂い)
独特の匂いが、鼻腔を通った。
「目が覚めましたか?」
足許から忍の方へ近付く、聞き憶えのある声。
(この、声…!)
それを耳にした途端、戦慄が身体を突き抜けた。
同時に、身体の芯が凍り付く様な恐怖と、嫌悪が、蘇る。
「解…体、屋…」
その声を、憶えていた。
その匂いを、憶えていた。
その名前を、憶えていた。
何一つ、忘れてなんかいなかった。
時間の砂に埋もれていた記憶は今、風化する事無く鮮明にその姿を露にした。
「……。憶えていて下さって光栄ですよ」
とうとう視界の内に現れた白衣姿の男は微笑んでいた。
十年前と今が、夢と現実が、一瞬で繋がる。
記憶の扉を抉じ開けたのは、彼の纏っている独特の匂いだ。
長く伸びた前髪の隙間からのぞく右の眸は、薄ら微笑んでいた。
微笑みなのに、どうしてこんなに冷たいのだろう。
十年前と、何一つ変わらない。
(…逃げなきゃ)
起き上がろうとしたのは、ほとんど反射だった。
けれど、やはり腕にも脚にも力は入らなかった。
それどころか、身体に力を入れようとしただけで、酷い眩暈を起こす始末。
「動けないでしょう」
その様子を見ていた男は、実に愉しそうに忍を見下ろしている。
「何を…した?」
「十年前と違って、本気で暴れられたら抑え切れませんから。
…おや、目の焦点が合わなくなってきている様ですね。予定より少し早い」
後半は、ほとんど独り言の様だった。
「薬…?」
「まさか。そんな無粋な真似はしませんよ」
まるで、心外だとでも言いた気な口振りだ。
彼は、忍の左腕を掴み、目線上に引き上げた。
「見えますか?」
吐き気を抑えながら視線を前腕へ移す。
その真ん中辺りから、細い管が伸びている。
管の根許には、白いテープでしっかり針が留められていた。
「点滴 」
しかしそれは、忍の知っているものと少し体裁が違っている様な
「さっきも言いましたが、薬なんか使ってませんよ?
知ってます? 鎮静剤はね、かけられた側はとても気持ちが良いんです。
それは私の趣味に合わない。まして全身麻酔はそれだけで死に至る場合もある。
だから私は、薬など使いません。
そこからは君の血液が少量ずつ流れ出ているだけです」
解体屋は、細い管を指先でかるく持ち上げた。
投薬の為の点滴は、針を入れた箇所より上に管が延びているはず。
しかし、その管は針の入った腕より下に垂れていた。
どうやら、先刻感じた違和感はこれのようだ。
「血管に針を挿れて、管を垂らす。重力に従って、液体はより下方へ流れる。
小学生の理科ですね」
ぷらぷらと管を揺さぶり、それをうっとりと見詰める姿は、到底正気には見えない。
「…最初に感じたのは、眩暈? それとも吐き気?
次は、手足の先が痺れてくるのを感じたでしょう?
それから、悪寒…冷感…身体は冷えてきているのに、汗が滲む。
そして、鉛の様に重くなり、思う様に身体が動けない。
今は、そうですね そろそろ視覚や聴覚に影響が出て来てるんじゃないですか?」
忍の顔を見詰める男の目は、本当に愉しそうだ。
この男には時間の流れと言うものが無いらしい。
目の当たりにしているのは、あの夜から寸分違わぬ姿で存在し続けていた狂気。
それはまるで、悪夢が零れ出したかの様だ。
(…違う。悪夢が零れ出したんじゃない )
現実だ。
逃げ続けてきた現実に、捉えられてしまったのだ。
赫い夢は、夢などではなかった。
それが今、目の前で嗤っている。
「お帰りなさい。私の、赤い蝶々」
男が、寝台の縁に腰を下ろた。
そして、上半身を捻り、忍の顔を挟む様に両腕を寝台に衝いて見下ろす。
彼の纏っている香の匂いが更に近付く。
より、酷くなる眩暈。
過去と現在の境界線が溶けてなくなる様な錯覚。
ゆったりとした動きで解体屋の顔は近付き、逃げ場も無いままに口接けられた。
その口唇に噛み付いてやるくらいが、精一杯の抵抗だった。
「…痛」
口唇の端に滲む血を舐める。
しかし、その口許は微笑んでいた。
「成る程。あの頃より手強くなった、と言う事ですね?」
解体屋は、興味深気に目を細める。
(もう、戻れないかもしれない)
(それなら)
(それだからこそ )
忍は、覚悟を決めた。
何が起こっても、心を渡さない。
悲鳴だろうが、涙だろうが、何一つ渡さない。
「お前の…思い通りには、ならない」
口唇を固く引き結び、目の前の現実を見据える。
「良いでしょう、ますます魅力的だ」
解体屋は、それまで顔を隠していた前髪を軽く上げる。
忍は、両手で顔を掴まれ、その双眸を深く覗き込まれた。
「 っ」
一瞬、息が止まった。
彼の顔の左側に、縦真一文字の深い傷痕。
その中心にあるべき左眸は完全に潰れ、機能を失っていた。
「憶えてます? あの時、君が潰したんですよ」
解体屋は、微笑を崩さない。
「君が今になって囚われた理由は、これだけではありません。今から、全てを思い出させて差し上げます」
そして、顔を掴んでいる両手のうち、右手が忍の目蓋へとゆっくり滑る。
「俺は、あの時親に売られた。そして、お前の目を潰して逃げた。それ以外に何があるって言うんだ」
それだけもう十分だろう、と忍は解体屋を睨み上げた。
「ほら、大事な事を忘れてる。抵抗して客から逃げただけでは、十年も後に掴まった理由としてはややお粗末だと思いませんか?」
愛おしい物に触れる様に、解体屋の手が忍の頬を撫で上げる。
彼が動作する度、その纏っている香の匂いが鼻を衝いた。
しかし指先には、香の匂いだけではなく、別の臭いが混ざっていた。
妙に不快感を誘う。
(この臭い…)
滑りのある、嫌な臭いだ。
その臭いに触発され、忍は、その記憶をより鮮明に思い出した。
(あの時 )
この男から逃れようと、無我夢中で振り上げた右手。
その時掴んでいた何かが、掠めた微かな手応え。
目の前のこの男が、獣の様な咆哮を上げる様。
(そして)
蹲る男から少しずつ後退さり、右に視線を動かした時、目に入った扉から飛び出した。
(後退さって…右?)
それは、おかしい。
忍が連れ込まれた部屋の扉は、常に男の肩越しに見えていた。
足掻いて、足掻いて、何度も手を伸ばした扉 見紛う筈が無い。
それは確かに、解体屋の身体の向こう側にあった。
(それじゃ、俺が飛び出した…あの扉は?)
あの部屋には、入った扉と出た扉 二つ扉が有ったと言う事だ。
突然、大きく心臓が跳ね上がった。
目蓋の裏で閃く、赤黒い『何か』。
(あの時…)
部屋に飛び込んですぐ、滑りのある泥濘に足を取られた。
貼り付く様に皮膚に残る、生温い液体の感触。
鼻腔から離れない、生臭さと強い薬品臭。
(転んだ…そして、何かに掴まって、立ち上がった…)
何か、硬く冷たい、台の様な物。
指先に触れたのは、その上に残っていた、残骸。
断片的な記憶が、整列してゆく。
『赫い夢』の全容。
「思い出しました? 君はあの時、出口を間違えて私の仕事場に入ってしまったんです」
忍の表情を読み取った解体屋は、可笑しそうに嗤った。
「血の匂いを消す為だ…その、強い香の匂い…」
解体屋は、その廃ビルでまさに『解体』を生業にしていたのだ。
「最初はただの客だったのですがね。解剖技術を高く買われまして まあ、趣味と実益と言った処です」
花街では、子供が消える事など珍しくも無かった。
野垂れ死にも、売り飛ばされるのも、全て日常
切り分けられて売られる子供の話などは、まるで都市伝説の様に誰からとも無く囁かれていた。
あの夜、『幸也』が見てしまったのはその現場だったのだ。
「君は、見てはならないものを見てしまった そういう事です」
にぃ、と彼は大きく口角を上げた。
「…生き証人、と言う訳か」
それは、しつこく狙われるだろう。
「組織的にはね」
「 的に? ……お前は、違うとでも?」
「誤解の無いように付け足しておきますが、私と組織は別ですよ? 私は、個人的に君を買ったんです。手放す気などありませんでしたが、君は契約を反故にして逃げ出し、あまつさえ、見てはならない部屋を覗き見てしまった。結果、組織にとっても君は、放置出来ない危険分子になってしまったのです。私が君を捜させていたのではない。ただ単に利害が一致しただけです」
「………」
「今、君は私の愉しみの為だけに生かされている。この部屋を一歩でも出たら、今度は確実に命が無くなりますよ。まあ、それはそれで私の方は別の愉しみ方があるので構わないですが…出来れば、両方愉しませて頂きたいものです」
そう言いながら、解体屋は忍の腕から丁寧に針を引き抜いた。
正直、ぞっとした。
命尽きて尚、自由を得られない。
これほど、安寧の無い死と言うのも稀ではないだろうか。
「君に、逃げ場はありません」
穏やかな声音が、より彼の残忍さを引き立たせていた。
シャツの襟に、冷たい掌が滑り込む。
それは、あの夜と同じ様に荒れて渇いた肌触り。
弾かれる様に外れてゆくシャツの釦。
何度もフラッシュバックする、網膜に焼き付いた赫い残像。
あれ程壊れた光景が他に存在するだろうか。
意地などかなぐり捨てて、叫び出したい衝動に駆られた。
それを、必死で堪えていた。
目の前の男を喜ばせるだけだと、分かっていたからだ。
しかし、その様さえ彼には快楽であるらしく、愉し気に目を細めている。
「さあ…始めましょうか、あの夜の続きを」
解体屋は、薄い三日月の様に口を歪めて嗤った。