赫い蝶々

scene.1

  赫い 夢 を 見ていた。

 忍がまだ、忍ではなかった頃。
 幸也と呼ばれていた頃。

 ゆらゆらと昏い水底で揺れる影の様に、不確かな記憶。
 封じられた匣の蓋が、開こうとしていた。


 今は昔、遊郭と呼ばれたその町は今も、妍を競い華を売る。
 その日幸也は、花街の通りを、父親に手を引かれ、歩いていた。
 朱赤の着物を着せられて、足には木履を履かされて。
 珍しく手などを繋いで、歩いていた。

 行き先は知らないまま、ただ手を引かれ歩いてゆく。
 道すがら、父親は長く無言で、時折薄ら笑いを浮かべていた。

何処へ 行クノ?

 真っ赤な着物の袖を振りながら、子供はぼんやり考える。
 細長い町の路地を真っ直ぐに奥へ進んでいく。
 一番華やかな通りは、とうに通り過ぎた。

 道はどんどん暗くなる。
 錆びた渡船場の看板。
 処々、切れて突き出た薔薇線。

  二人を見下ろす 満ちた月。

 薄暗い裏道を進む。
 場末の歓楽街の、そのまた裏通り。
 饐えたにおいが鼻を突く。
 路地と路地の隙間から、大川の堤防が時折覗く

提灯ノ 明カリ ガ
アンナ ニ 遠イ

 慣れない木履。
 きつく締めた帯。
 酷く息が切れる。
 幸也の足が遅れがちになると、父親は無言で腕を強く引いた。



 幾ら程歩いたのだろう。
 やがて辿り着いたそこは、今にも崩れそうな廃ビル。

 黒々とした建物の影から、男が手招きをしている。

「遅かったやないか」
 太い声。
 顔は、逆光で見えない。

「すんません、支度に手間掛かってしもて」
 露骨な作り笑いを貼付けた父親の顔。
 その父親の手で、幸也の身体は男の前に押し出された。

「ふん。
 手間暇掛けて梱包してくれた訳や」
 男が鼻を鳴らす。
 見下した様な、声音。

「そらもう! 女将に一番ええ着物出してもろたんで」

「そんなゆうて、値ェ吊り上げようなんちゅう話やないやろな?」
 男の声が、一層太くなる。

「ま、まさか! そんなん考えとる訳ないやないですか!」
 更に強い力で、幸也は建物の中へ押し込まれた。

「まあ、ええわ。
 お客さんがお待ちかねや」
 幸也の背後で静かに扉が閉められた。
 錆びた蝶番の、微かに軋む音だけが響いた。

 勝手知ったる様子で、父親は真っ直ぐに廊下を奥へ進む。
 そして、そのまま廊下の奥の部屋へ消えた。

「待ち」
 父親の後を追おうと足を進めた時、男に右腕を掴まれた。
「お前はこっちや」
 男は、父親が消えた部屋とは反対方向、扉のすぐ側の階段を指し示した。

 抗しきれない力に引き摺られ、幸也は階段を上る。
 静まり返った階段に、木履の渇いた音がやけに大きく響く。
 二階より上は照明が無かった。
 唯一つ踊り場の窓から洩れ入る月明かりだけが、足許を照らしていた。

何ガ 起コル ノ ダロウ 。

 一段上る毎に、昏がりへ落ちていく様な閉塞感。
 じっとりと肌に纏わりつく湿気。

  踊り場を照らす月は、大きく、そして赫かった。

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