赫い傷痕

scene.1

 重苦しい夜が明ける。
 地上十四階の朝は、妙に静かだった。

 忍が目を覚ましたのは、朝の六時頃。
(昨日は…色々有り過ぎて、何か頭の中が混乱してる…)
 いきなり学校に現れた弁護士。
 実は、幼馴染だった転校生。
 坂口慎介。
 麻薬。
 そして  
(俺の、素性…)
 昌弘は、昨夜の段階では、全てを明らかにしなかった。
 ただ、二人が幼い時代を過ごした町が、今はもう無くなってしまった事。
 幸也を残して消えた両親の謎。
(消えた両親  焼失した花街  校内で広がった麻薬)
 それらは全て一つの線で繋がっていると、昌弘は言った。
 今になって、昌弘が忍の前に現れた事と、それは関係あるのか  忍には分からなかった。
 そして、坂口慎介が校内に持ち込んだ麻薬と、昌弘の繋がりも分からない。
 それ処か、今分かっている事と言えば、たった一つ。

 忍には、帰る場所が無い。

 それだけが、明らかだ。

(志月  今頃、どうしてるだろう)
 せめて最後の言葉は、彼の口から聞きたかった。
 それが、忍にとって一番の心残りだった。
 本人の声で言われなければ、もしかしたら、何かの間違いかもしれない。
 そんな幻想を、いつまでも振り払えないような気がするから。

 突然、テレビのスイッチが入った。
「…びっくりした」
 オンタイマーが掛っていたらしい。
 朝の情報番組が、七時半を告げる。
 空々しい程元気な声で、リポーターが今横浜に就航中の豪華客船をリポートしていた。
 その声に反応する様に、昌弘が勢い良く身体を起こす。
「寝足りへんなぁ」
 そう言いながら、彼は身体を大きく伸ばした。
(寝足りないって言う割には、寝起き良いな…)
 心の中で忍は呟いた。
「幸也、ちょぉ用事あるから出掛けるけど、大人しく部屋で待っとってや」
 起きるなり、昌弘が身支度を始めた。
 起き上がってから、玄関に至るまでに要した時間は、僅か五分。
「…分かった」
 こんな朝早くから、一体何処へ行くのだろう。
「それから、俺はええけど、学校  無断欠席したらマズイ思たら電話しときや。また戻るかもしれへんやろ」
「それは…無いと思うけど……。でも、一応、入れとく」
 忍に自力で城聖学園に通う経済力は無い。
 このままでいけば、おそらく、中退するしかなくなるだろう。
「それから、買いモン行くんやったら行っとき。俺戻ってからやとバタバタするかもしれへんし。  スペアキー一本預けとくわ。服はテキトーにそこら辺のん着とき」
 飾り気の無い鍵が忍に手渡された。
「そうする。着替えも無いし」
 忍は受け取った鍵を、自分のキーケースに付けた。
 そこには、宏幸のマンションの鍵や、燃えてしまった桜川の屋敷の鍵もまだ付いている。
(川島さん…黙って出てきてしまったけど、心配してる…だろうな)
 しかし、彼に連絡を入れたら、とにかく戻って来いと言われるだろう事は、容易に想像がついた。
 更に、記憶の無い友人に説教の一つでもし兼ねない。
「あ! それとや!」
「な、何…!?」
 急に大きな声を出され、忍は驚いて顔を上げた。
「…お前なぁ、ヒトが喋っとる時に他所事考えるんやめぇや。ま、ええわ。外出るんやったら、くれぐれも気ぃつけろや? 学校で調べたら、俺のマンションくらいすぐ場所分かるんやし、万が一坂口が現れても昨日みたいにホイホイ付いてったらアカンで」
 真剣に、真顔で、昌弘が忍に言った。
「分かってるよ。昨日あんな話聞いたら、さすがに俺でも用心するから」
「…ホンマやで」
 まだ疑いの眼差しをしている。
「本当に気を付けるから。早く行けよ。よく分からないけど、用事があるんだろ?」
 忍は、後ろ髪を引かれている様子の幼馴染の背を、扉の外へ押し出した。
「ほんじゃ、まぁ…行ってくるわ。もっかいゆうけど、くれぐれも気ぃつけや!!」
 再三念を押して、昌弘は出掛けて行った。
(小学生の留守番じゃないんだから…)
 余りの心配性に、忍の口から溜息が洩れる。
 しかし、昌弘と話しているうちに、朝起きた瞬間背中に重く圧し掛かっていた閉塞感は、大分軽減されていた。
「とりあえず、学校に欠席の連絡を入れて…着換えを買いに行こう」
 戻れる可能性は限りなく零に近いが、昌弘の言う通り、連絡だけは入れる事にした。
 誕生日に千里から貰った携帯で学校に連絡を入れ、忍は買い物に行く為に、昌弘の服を借りて着替えた。
「何で…こんなのしかないんだろう……」
 およそ普段は着ない様な、真っ赤な金魚柄のアロハ。
 ダメージ加工されたハーフのカーゴパンツ。
(ちんぴら)
 そんな単語が頭を過る。
「とにかく、何より先に服を買おう。とてもじゃないけど、こんな目立つ格好で長時間出歩けない……」
 携帯と財布だけを持って、忍は昌弘の部屋を後にした。

 それは、とても静かな朝だった。
 しかし、見えない所で、確実に何かが動き始めている。
 そんな予感が、水に零したインクの様に、じわりと空気の中に溶け出していた。

前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++


PAGE TOP▲