scene.7

 懐かしい体温を感じて眠りに落ちた所為だろうか。
 その夜、昌弘は今は無い生まれ故郷の夢を見た。


 夢の中に現れた町に、もう幸也の姿は無かった。
 白みかけた明け方の空を、昌弘は走っている。
 その時、正確に自分が何歳だったのかは分からない。
 その日、昌弘は図書館で新聞を中心に情報収集に明け暮れていた。
 いつか町を自力で出て行く。
 幸也がいなくなったその後も、その日の為の準備は黙々と続けていた。
 やがて、閉館時刻で追い出された後は、涼む為に図書館に居座っていたホームレスと意気投合。
 元は事業をしていたが、弾けた泡の一つになったと言う男の話は、それなりに勉強になった。
 そんな理由で、うっかりそのまま夜を明かしてしまった昌弘は、帰路を急いでいた。
「ヤバイなぁ。オカンになんもゆうてきてへんから、怒っとるやろなぁ」
 とにかく、置屋の提灯の火が落ちる前に帰らなければならない。
 夜明けの街を、ひた走る。
 すぐ隣は繁華街であるにも拘らず、地図にすら載せて貰えない町。
 いつかは、出て行く。
 そんな決意を両手に抱いて。
 それでも、今は帰るしかない。


 しかし、町の入り口に辿り着く頃、そこがいつもと違う様子である事に気付いた。

 まず、周囲に立ち篭める異臭が鼻を突いた。
 あらゆるものが焼ける臭い。
 蛋白質が焦げる独特の臭いだ。
 昌弘は呆然と立ち尽くした。
 町が、燃えている。
 現実感の無い光景が、眼前に拡がっていた。
 崩れた建物の残骸が、辺りを埋め尽くす。
 真冬だと言うのに其処此処で吹き出した炎の所為で、肌に感じる温度は真夏の暑さよりも熱かった。
「…こんなん、戦争みたいやんか」
 低い呟きが洩れた。
 木造の古い家屋が建ち並ぶ寂れた花街は、今や黒く焼け焦げていた。
 一軒や二軒ではなく、町そのものが焼けている。
 火事などと言う言葉では片付かない。

 昌弘は自らの家に向かい、炎の隙間を縫って走った。
 コンクリートが焼け石の様に熱を持ち、昌弘の足を焼いた。

 町に人気は無かった。
 道々に力尽きて倒れている者の姿は時折見かけたが、生き物の気配は其処には無い。
「何で、誰も来ぉへんのや!?」
 答える者など無い問いを、昌弘は宙空に放つ。
 これ程の惨状でありながら、救助隊は見る影も無い。

 見捨てられた町。
 地図にすら載らない町。
 遠い昔、線を引いて閉ざされた町。

 一夜のうちに廃虚と化したその場所を、昌弘は無言で走り抜ける。

 やがて、一件の木造屋の前に辿り着いた。
 いや、昨日までは木造屋だった残骸の前に辿り着いた。

「なんや…これは…?」

 其処はもう他の家屋の様に燃えてすらおらず、崩れ落ち、何もかもが燃え尽きた後の細い煙りが立ち上るだけの場所だった。
 昌弘は残骸の周囲をぐるりと廻り、やがて、そうっと其処に上った。
 丁寧に調べていくと、僅かに燃え残っている場所がある。
 一縷の希望を持って彼はその場所へ駆け寄った。

 しかし其処に見たのは  

 コンクリートに木片の混じった瓦礫の下から突き出した、青白い女の腕。

 それが既に生命の尽きたものであることは、一目で見て取れた。
 誰のものとも判別し難いそれは、まるで其処から生えた別の何かの様だ。



「うわああぁっ!」
 昌弘は跳ね起きた。
「はぁっ、…はぁっ…」
 夢だ。
 夢だ。
 夢だ。
 夢だ。
 夢だ。
 夢だ。
 夢だ。
 夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ。
(夢や…ない…)
 頭にこびり付いて離れない、瓦礫の街。
「……」
 その日の事を思い出すと、未だに気が触れそうになる。
 だから今はまだ、思い出してはいけない。
 果たすべき事を果たすまで、正気を保たなければ。
 昌弘は、何度も荒い息を吐きながら、過去という亡霊に引き摺られそうになる心を引き止めていた。
 その時突然、上体だけを起こしている昌弘の膝を、柔らかいものが触った。
 幸也  忍が寝返りを打った為、昌弘にぶつかったのだ。
「何や、寝返りか…」
 眠る直前まで沈んでいたが、今は穏やかな寝顔だ。
 微かに聞こえる寝息が、耳をくすぐる。
「はは、なんや……意外と寝相悪いんやな」
 ホッとした。
「どうかした…?」
 昌弘の声に、忍が目を開けた。
 起き上がり、彼は昌弘の顔を覗き込む。
「…大丈夫?」
 心配そうな顔をしている幼馴染は、今はもう、二人の生まれた町が無い事を知らない。
「ああ…なんもない。ちょっと、懐かしい夢見ただけや」
 町は、突然の大火事で全て焼き尽くされた。
 昌弘の生まれ育った置屋も、そこで暮らしていた女達も、忍  幸也を育てた朱実も、女将だった母親も。
 何もかも、跡形もなく燃えてしまった。
 今はもう、近代的なショッピングモールが出来、その場所に花街が在った事など知る者も無い。

 今でも目に焼き付いて離れないのは、瓦礫から生えた様な白い腕。
 誰のものなのか、昌弘には知る術も無かったが、それは、あの惨劇の象徴として記憶の中に深く刻み込まれた。

「昌弘……?」
 尚も心配そうな顔で、忍が昌弘の顔を見詰めている。
「なぁ…、ちょっとだけ、触ってもええか?」
「…? いい…けど…」
 訝しげな様子ではあったが、忍が承諾した。
 それを確認して、昌弘はそうっと細い肩に腕を回した。
 触れている相手の、鼓動が微かに響いていた。
 すぐ側に纏わり付いていた焼け跡の焦げた臭いが、すっと引いた。
 同じ記憶を共有している人間が、少なくともここに一人生きている。
(あの腕が、コイツやなくて良かったんや)
 その事実だけでも、救いだった。
「…もうちょっと太れや。自分、細すぎんで」
「こういう体質なんだ。しょうがないだろ」
 不服気な声が忍から返った。
 彼には、まだあの町がもう無くなってしまった事を、伝えていない。
 問われない限り、昌弘は話すつもりは無い。
知らなくて済むなら知らない方が、いい事だ。
「あーあ。なんや中途半端に目ぇ覚めてしもたなぁ。もっかい飲み直そかな」
 そう言って、昌弘は幼馴染から身体を離した。

 その瞬間、夜の静寂を破る様に、昌弘の携帯が鳴り響いた。

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