scene.6

 短い沈黙を破ったのは、忍の方だった。
「みっともないよな、俺。すぐに、こんな風に…」
 自嘲する様な呟き。
 弱々しい声が、昌弘の身体に響いた。
 何かのきっかけで、頭の中のスイッチが切れる。
 現実の時間と切り離され、暗い闇の中へ沈んでしまう、忍の意識。
 左腕に伝う体温と重みを感じながら、昌弘は溜め息を吐く。
 何故それが起こるのか、昌弘は凡その答えを知っていた。
「疲れとんのと、ちゃうの?」
 ただ、今更その話を特に本人に告げようとは思わない。
 いずれ、そんな話をする日が来るのかもしれないが、少なくとも今はしない。
「それで、風呂場で倒れる程何考えとってん?」
 そんな事はまるで何でも無い事だと言う様に、昌弘は会話を普通に繋いだ。
「いろいろ、考えてた。さっき昌弘も言ってたみたいな事…これからどうしようとか、何処へ行こうとか…」
 スイッチが切れた後の記憶は、残っているらしい。
(切れるっちゅうより、切り替わるんやろな)
 ある意味、際立った集中力とも言える。
 どちらにせよバランスが悪いと言う事実は否めないが。
「…もう、眠い」
 また何かのスイッチが切れた  あるいは入ったのか、昌弘に背中を向けて、忍は足許に置いておいたブランケットを引き上げた。
 そして、本当に眠そうに左手の甲で目を擦る。
 まるで猫みたいだと昌弘は思った。
 背中を向けているくせに、ちゃっかり忍は昌弘の右手を枕にしていた。
 それを一旦引き抜き、灯りを消して自分も横になった。
 いつもの癖で、テレビはタイマーを掛けて点けっ放しだ。
「自分、色々てゆうたけど、その色々の中にはあいつの事も入っとるんか?」
 眠りに落ちかけている相手を捉まえて、気になっていた事を質してみる。
「…どうして、そんなの訊くんだよ?」
 七割睡魔に攫われた声で、忍が答えた。
「もう、止めたらええやん」
 溜めていた一言が、口を衝いて出た。
「え…?」
 不思議そうな声が返ってくる。
「お前、くたくたやんか。そんなんなってまで、まだ考える事あるんか?」
 どうしようもなく途方に暮れて、足を出す方向すら分からないでいる様子が痛々しかった。
 そして、腹立たしかった。
「何言ってるんだ? 止めるも何も…俺、家を出てきたのに  もう止めるも何も無いだろ」
 忍は昌弘に背中を向けていた。
 その為、表情は分からなかったが、彼の背中がこれ以上の追求を拒んでいる。
「それやのに、まだ考えてるん?」
 それでも、昌弘はまだ言葉を続けた。
 右腕を忍の首の下に通し、左腕は肩を覆うように回す。
 細い華奢な肩が一瞬揺れる。
 触れてみると、見ているよりも一層薄く頼り無い身体。
 思ったよりも体温が低くく、触れた肌は昌弘よりも少し冷たかった。
「昌弘?」
 さすがに怪訝に思ったのか、肩を覆う腕を忍が払おうとした。
 その手ごと、更に身体を押さえ込む。
「俺にしとかん?」
「え…?」
 昌弘の腕の中で身動ぎをする、その力が一瞬抜けた。
「お前気付いてへんかったやろけど、昔から『特別』やたんやで?   俺にとってな」
 昌弘が苦笑した。
「なに? 何の事  
 忍の心拍数が跳ね上がる様子が、昌弘の腕を伝う。
 つけっぱなしのテレビの光だけでは、生憎顔色は判別できなかったが、きっと耳まで赤くしているに違いない。
「あんな所におったせいか、あんまり…女…ていうか、色事そのものに関心持たれへん。  何遍かそんな機会もあったけど、いつもどっか冷めとって、自分が悪い事してるみたいな罪悪感やら、汚れていくみたいな嫌悪感やらが付き纏ぉて、いつも最後は嫌な気持ちになっとった」
 自嘲する様な笑いが、昌弘の意思とは関係無く洩れた。
「まぁ、置屋は色を売る場所やからしゃあないんやけど、子供の俺にはそういうの全部汚いみたいに見えてしもて  売られてる女共も、買いに来る連中も、えらい冷めた気分で見とったわ」
 見てくればかり華やかで、それでいて何処か作り物染みた安っぽい町並みが、昌弘の目蓋の奥に映った。
「……」
「…そん中で、お前だけは全然ちゃうとこにおって…つくりもんみたいに綺麗やった。あの頃は俺本気で、いつかお前連れてあの町出たろて思てた。」
 言わないでおいた言葉が、ぽろぽろと零れ落ちる。
 無駄な事を言っているという自覚はあった。
 それでも一度糸が切れると、それはもう止まらず、流れ出るばかりだった。
「だから、ほんまはあの時行かせたなかった。ずっと一緒におりたかったんや。せやけど、あのままあそこにおったら、俺はともかくお前はどうなったか分からん。少なくともあいつはあの界隈に来る客にしたらマトモやったし、おかんに聞いたら、不幸な事故で亡うなった身内に似てるんやて話やったから、そう無茶もせんと思た。  そやけど今…お前、しんどそぉやんか。どう見ても限界やん。それやったら、もぉ俺にしとけや。あいつんとこ帰らんのやったらどうせ行くとこ無いやん。また昔みたいに一緒に居ろぉや」
 そんな風に切り替えられるなら、皆もっと楽に生きているだろう。
 昌弘は、自分の言葉の空しさを理性では理解しながら、感情は制しきれないでいた。

  言うだけ無駄だ。

  そんな事は分かってる。

 それでもそれは、この七年間ずっと胸の奥に大事に仕舞ったまま取って置いた言葉だ。
 回した腕に、大きく打つ鼓動が響いてくる。
「……」
 彼は何も答えなかった。
「ほんまは、こんなん言うつもり無かってんや。…俺の方のゴタにも巻き込んでまうし  そやけどお前、こんなんしててしんどいだけやんか」
 忍が幸也だった頃しか知らない昌弘には、彼がこんな風に誰かに執着する様になるとは到底想像出来なかった。

  いや、違う。

(知っとったんや、俺は)

  あの華やかな提灯の下で、彼が何を待っていたのか。

(何も思て無いようで、誰より執着が強いんや)
 求めるもの一つあれば、それだけで良い。
 そんな潔い執着心を、いつも心のずっと奥の方に仕舞っていた。
 何故それが、自分ではないのだろう。
 項に顔を摺り寄せる。
 自分のものと同じ石鹸の匂いがする。
 忍は無言のまま未だ背中を向けている。
 永久に触れてはいけない、背中だ。
 誰の為の決まり事でもない。
 それは、昌弘の為の決め事。

 例え、もう一度伸ばした腕を彼が振り払わずとも、触れてはいけない背中だ。
 もう、記憶の中にしか存在しない町の、唯一の具象。
 それを、自らの手で壊す事は出来ないのだ。

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