scene.5
冷蔵庫の中には本当に酒以外の飲み物は一切無いのだ。
先刻空にしたジンジャエールが最後のソフトドリンクだった。
ふだんから長時間自宅で過ごす事が無い為、家の中には本当に飲食物を置いていない。
食事は三食とも外食で済ませてしまうし、下手をすると自宅には寝にすら帰っていない日もある。
マンション一階ロビーに出ると、コンシェルジュの横に小さな売店がある。
一応二十四時間営業しているが、夜七時を過ぎると商品はかなり少なくなる。
「確か、こぉゆう時て茶は却ってアカンかったよな」
ミネラルウォーターとスポーツ飲料のペットッボトルを一本ずつ購入し、部屋へ戻った。
無理矢理湯から引き上げて、そのまま放置して来た幼馴染みは、昌弘が戻る頃には起き上がっていて、しっかり服を着込んでいた。
「お? 起きあがれたんか」
「まあ、なんとか…」
答える彼の顔はまだ真っ青なままだった。
「とりあえず水買って来たから、飲み」
今買って来たばかりの水を取り出し、グラスに注いで手渡した。
「ごめん、ありがとう」
受け取ると忍は神妙な顔で水に口を付けた。
そして、「去年にもこんなことあったんだ」と恥ずかしそうに言った。
そのせいで酒は呑みたくなかったのだと言う。
「別にええよ、気にしてへんし。 こっちこそ無理に勧めて悪かったわ。まさかここまで壊滅的に弱い思わんかった」
昌弘がそう答えると、忍は小さく首を横にふった。
「本当はあのくらいなら平気だったんだろうけど、風呂の中でぼーっとしてたから…」
忍がずぶ濡れの猫並みにしょげている。
「まぁ、気にしなや。お前なんかまだ可愛い酔い方しとる方やって」
昌弘は忍の隣に腰を下ろすと、寝酒にしている洋酒の壜を開けた。
無造作にそれをグラスに注ぐ。
「まだ呑むのか?」
忍が胸悪そうにそのグラスを眺めている。
「勧めへんから安心しぃや」
あんな、ほとんどジュースの様なものでここまで酔う人間相手に、さすがに原液そのまま呑ませる気にはならない。
「そんな事じゃないんだけどね…」
溜息を吐いた忍の身体が、徐々に傾いてきた。
その体温と重みが、昌弘の右肩に伝わってくる。
寝床にする為に背凭れを倒してしまったので、今ソファはフラットになっていた。
その為、凭れる所を失くした忍の背中が、昌弘の左腕に凭れ掛かって来たのだ。
「何しとんねん」
半乾きの髪が半袖の腕を擦って、妙にくすぐったい。
「…凭れる所が無いと、しんどい」
昌弘に体重を預けたまま、ずるずるとその腕を滑り落ちた忍は、最後には脇に衝いた昌弘の手の甲を枕にして寝転がった。
「自分、ホンマに子供か」
昔からあまり彼を年上と意識した事は無いが、相変わらず自衛すると言う事を知らないこの幼馴染みは、一度緊張が解けると、年上処かまるで小さな子供の様に無防備になる。
「…苦しい」
突然ぽつりと忍が呟いた。
「あ?」
いきなり何を言い出したのかと、思わず顔を覗き込んだ。
すると彼は途方に暮れたような顔で、天井を見つめていた。
「咽喉の奥で、何かの塊が灼けてるみたいだ。
幾つも、幾つも、言いたい事なら山程あるのに
口から出そうとすると、そいつが咽喉を灼いて、声が出なくなってしまう」
昌弘と話しているのか、それとも独り言なのか、どちらともつかない口調で、更に忍は言葉を重ねた。
「苦しい。もう嫌だ」
途方に暮れた声だった。
「……そやな」
昌弘は、忍の弱音に短い相槌を打った。
今まで、誰にも言わずにきたのだろう。
とりあえず、一度全部吐き出せば良い、と思った。
「俺は、もうあの人の傍にいられない」
「出てけ言われたからか?」
その問いに対して、忍が首を横に振った。
「違う。俺が、あの人を疑ったから。
あの人が、俺をどう扱ったとかじゃない。
その根底にある気持ちを、疑ってしまったから」
「けど、こう言うたら悪いけど、そんなもん最初から疑うとこだらけちゃうの」
「例え、そうでも信じなきゃいけなかった。俺は…」
言葉が宙を漂う。
信じなければいけなかったと、彼が言うのは一体誰への想いだろう。
「少なくとも、お前が信じとったんは、アイツがお前の事どぉ思てるかなんちゅぅ、温い話やなさそうやな」
「そんなもの、端から考えもしない。
俺が疑ったのは、志月の人格そのもの
あの人の純粋さそのものを、疑った。
何もかもを…裏返しに見てしまった」
そう言った忍の声は、どこか自暴自棄で、昌弘は彼の後悔を感じ取った。
きっと、彼が相手に疑いを抱いたのはほんの一瞬だったのだろう。
その一瞬が、彼には赦し難いのだろう。
彼自身が最も惹かれた性質そのものを疑ってしまったことが
昌弘に言わせれば、疑わせる何かが相手にもあったのだろうし、責任はいいとこで五分五分なのではないかと思う。
そもそも、純粋さとは何だろうか。
混じり気の無いものの総称だろうか。
昌弘には分からない。
「何や全く お前、風呂ん中でそんなん考えとったんか」
昌弘はわざと呆れた風な軽口で返した。
「頭の中がぐちゃぐちゃして…」
突然、昌弘は左手の甲が濡れるのを感じた。
「そら、上せるわな」
涙が伝ったのだ。
昌弘は気付かない振りをした。
手の届かない片恋。
その袂が、昌弘の指先を掠めていた。