ヒトハダ

scene.1

 今から十年前の事だ。
 昌弘は当時僅か五歳の子供だった。
 子供だったが、子供なりに自分の家の稼業がどういったものなのか、漠然とではあるが理解していた。

 置屋という店が何を扱う場所場なのか。
 格子窓に並ぶ女たちが何をする為にそこにいるのか。
 何故、自分には  いや、この界隈の子供にはほとんど父親がいないのか。
 華やかな灯篭の灯りに飾り立てられた世界が、ただの幻である事。
 その陰に潜む湿った憎悪と妄執。
 そんなものを肌で感じながら育った子供。
 それが昌弘だった。


 或る夜。    深夜零時を回った頃、置屋も入りの客は疎らになり、玄関先にはある種の倦怠感が漂っていた。
 帳場が落ち着いたのを見計らって、昌弘は店の廊下に顔を覗かせた。
 母親が、何やら帳面を眺めている後姿が見えた。
 置屋の廊下には安物の化粧の匂いが漂っている。
 昌弘はその匂いが余り好きではなかった。
 軒の唐格子の内側には、売れ残った女達が気怠げにして座っていた。
「かあちゃん、そっちいってええか?」
 廊下の端から、顔だけを覗かせて声を掛けた。
「ええよ。お客さんも落ち着いたし」
 子供に背を向けたまま、女将はのんびりした声で答えた。
「えっへっへーっ」
 ぱたぱたと足音をさせて、昌弘は女将の背中に飛びついた。
「こら、手元狂うやないの」
 女将は苦笑して背後から抱きついてきた息子の手を握った。
「そう言えば、架奈子ちゃんとうとうお休みやったなぁ…」
 女将がポツリと呟いた。
 架奈子とは、この置屋では一番人気の芸者だった。
「あのこが無断でお休みなんて珍しいこともあるもんやなぁ」
「かなちゃんきてへんの?」
「来てへんなぁ」
 架奈子は、取り得は顔とよく回る口先だけのつまらないホスト崩れに引っ掛かって、この世界に堕ちてきた娘だった。
 生まれたばかりの子供を連れていた。
 彼女は、元々育ちの良い娘だったらしく、置屋の中にいても何処か品があった。
 だから、すぐに客が付き、そして、一ヶ月も経たぬうちに、一番人気になった。
 あまり不平不満を言わない大人しい娘で、また生真面目な性格な為、仕事を休む様な事はほとんど無かった。
「なんかあったんやろか…」
 女将がそう呟いて玄関先に目を遣った時だった。
 子供が一人、置屋の中に飛び込んできた。
「あらまぁ! あんた、架奈子ちゃんの…!」
 四つ身の赤い着物を着せられた子供だった。
 それは架奈子の子供幸也だった。
 昌弘にも見覚えはある子供だった。
『同じくらいの歳の、日本人形のような女の子』  そう思って眺めていた子供だ。
「これ、今日の昼間幸一さんにうちが貸したったやつやんか? 何でこんな格好させられてるん? 架奈子ちゃんはどうしたん?」
「……」
 がたがたと震えたまま、なかなか声を出す事が出来ない子供の様子に、女将は只事ではないと思い、着物ごと抱き上げ、とりあえず店の奥にある自宅の方へ連れて上がった。
 昌弘はその女将のうしろをちょこちょことついていった。
 奥の間に上がると、慌しく女将は湯を沸かし始め、押入れから針箱を取り出した。
「マー、二階から薬箱取ってきて!」
「わかった、みどりのヤツでええの?」
「そぉ! 早ぉ!」
 昌弘は大急ぎで薬箱を取りに二階へ上がった。
 着物が赤かったので気付かなかったけれども、怪我をしていたのだろうか。
 ともかく、昌弘は女将に言われた通りに薬箱を持って下へ降りた。
「もってきたで!」
「ありがと、そこ置いといて」
 女将は慣れた手つきで幸也の着物を脱がせていく。
 昌弘は、既に脱がされ、横に置かれていた着物を何気なく手に取った。
 それは随分びっしょり濡れていた。
 そして、着物を触った自分の手を見て、驚いた。
 掌が真っ赤に染まっている。
 着物は血で濡れていたらしい。
 着物がびしょ濡れになるほどの血に気付いて、女将は慌てていたのだ。
 しかし、それからすぐに、襦袢にはそれ程血が染みていない事からそれが幸也の血ではなく、外から付いたものだと分かった。
 それでも、幸也自身も全くの無傷ではなく、左腕の付け根を鋭い刃物で深く切られた傷があった。
「…小梅の先生呼んで来て。今すぐや」
 女将はその切り口を難しい顔で見ていたかと思うと、昌弘に近所の医者を呼ぶように言った。
 医者といっても正規の医者ではなく無資格の闇医者だが、腕はそれなりらしい。
「わかった。いってくる」
 年齢の割に昌弘はませていると言うのか、しっかりしている子供だった。
 だからその時も、母親に言われたとおり通り三つ向こうの小梅通りに開業している闇医者を効率良く叩き起こし、七つ道具を持たせて置屋に戻るのに、僅か十分程の時間しか使わなかった。
 昌弘が置屋に戻ると、母親は医者に幸也を任せて慌しく出て行った。
 その後、彼女が戻ってきたのは翌朝、日も大分高くなってからだった。
 その間、彼女が何処にいたのか、何があったのかは、昌弘には知らされなかった。
 ただ、戻ってきた女将はとても疲れていて、複雑な表情をして押し黙ってしまっていた。
 その日の夜、やはり同じ様に置屋の芸者で朱美と言う女と女将が、随分長い間話し込んでいた。
 しかし、『大人の話やから』と締め出されてしまった昌弘には、そこでどの様な遣り取りがあったのかは分からない。

 その日を境に架奈子と幸一は行方が知れず。
 幸也は朱美と暮すようになり、彼女が出勤してくる頃に一緒に置屋に通ってくる様になった。

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