scene.7

 今夜の昌弘は、学校にいるときに比べて思いの外口数が多く、忍に考え込む隙を与えなかった。
 おかげで、あまり落ち込む暇も無かったのだが、小さな個室に一人きりになった途端、様々な感情が一遍に噴き出してきた。
 煩雑に散らばり、交錯する感情の破片。
 それらは断片でしかなく、明確な像は結ばない。
 纒りを欠いた思考は膠着し、次の出口を見つけられない。
 忍を捲くその破片の隙間から、フラッシュバックする志月の顔。
 笑っている。一点の曇りも無く。
 以前、川島宏幸が述べた事がある。
 志月は全てを忘れたかったはずだ、と。
 だから、客観的には気の毒な状況かもしれないが、今の状態は本人は不本意だとしても、幾らか幸福なはずだ、と。
 浴室内に、湯気とともに馴染みの無い石鹸の匂いが立ち上る。
 否応無く自分が今、まるで違う場所にいる事を思い知らされた。
 志月は今、どうしているだろうか。
 記憶を失ってから会う彼は、屈託が無く、翳りが無く、無邪気な人であった。
 剥き身の好意をそのままぶつけてくる事に、戸惑う瞬間も多々あった。
 それが他意の無い好意である事を、何処か寂しく思う気持ちも、無い訳ではなかった。
 時々、そういうもの全てが痛みになって、棘の様に心の何処かを刺したりもしたが、それでも忍は、自分なりに新たな距離感を掴もうと努めたつもりだったのだ。
 そうする事で、傍にいられるなら。

 これから先に必要な人間の一人になれるなら。
(だけど、駄目なんだ  
 今朝、彼の弁護士先生の述べた事が事実であるなら。

  『志月さんの申し出なんですよ』

  『今後の生活にも不自由無い様に、と』

「要らない…そんなもの」
 そんなものは、欲しくない。
 気付くと声に出していた。
 結局、『篠舞』のいない世界に、『忍』は必要なかった。
 それが、この長い問いの答えだったのか。

  じゃあ 昨日 の キス は な  に    ?

 縋り付く様な疑問が胸の奥底で燻るのを、忍は強引に閉じ込めた。

 無邪気な彼の残酷な悪戯。
 その一瞬に忍が揺れるのを、志月は何処か愉しんでいる。
 悪意の無い悪戯か、それとも分かっていて為される悪意か  
 それらは、忍に癒えない傷みを与えていた。
 でも、それは  
 悪意かもしれない、と疑った時点で、全ては終わっているのかもしれない。
 
 大きく頭を振って、忍は自分自身の弱さを振り払う。

  明日からは、自分の足で歩くんだ。

 人工の雨の下、忍は固く目を閉じた。

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