scene.2

 エレベーターを降りるなり、右手から志月を呼ぶ声が聞こえた。
「志月くん! こっちこっち!」
 にこにこ笑って、小柄な女性が志月を手招いている。
  宏幸の?」
 やはり見憶えの無かった相手に、少々戸惑いつつ呼びかけに応えた。
「そう、私が宏幸くんの奥様でーす! やーだ、ホントに憶えてないんだもん、私も二年生からずっと友達だったのになー」
 言葉と裏腹にあまり気にしていない様子の彼女に導かれ、志月は川島家の中へと入っていった。
つい先日まで学校帰りによく立ち寄った親友の部屋とは、似ても似つかないその室内の様子に戸惑いつつ、弓香に促されるままダイニングの椅子に腰を下ろした。
「紅茶でいい?」
 そう問う彼女の足は、既にキッチンに入りかけている。
「ああ、お構いなく」
「じゃ、紅茶ね」
 別に何も要らないと言う意味で言った志月は、彼女との会話が少しズレた様な気がしたが、ここは気にしないでおく事にした。
 やがて彼女と志月の間にポットウォーマーに包まれたティーポットが置かれ、カップが並べられた。
「砂が落ちきるまで少し待ってね」
 そう言って、彼女はポットの横に砂時計を置いた。
「本格的なんだな」
 砂時計を眺めながら感心した様に志月が呟いた。
 一瞬間を置いて、親友の奥方は得意げな顔になって笑った。
「まーね、好きだから。  あ、そろそろいいと思うよ」
 言うや否や、すぽっとポットウォーマーを外した。
 丁度砂が落ちきるくらいのタイミングだった。
「さぁ、それじゃ白状してもらおうかしら」
 自らも志月の対面に腰を下ろし、彼女は不敵に笑った。
「え?」
 いきなり『白状』とは、穏やかではない表現に志月は一瞬怯んだ。
「何かあったんでしょ? 昨日、忍君も帰ってきてから何だか様子がおかしかったし、そこへきてあなたがいきなり訪ねてくるなんて、もうただごとじゃないじゃない。
どうしたのよ? ケンカでもしたの?」
「そんなにおかしな様子だったのか?」
 不味い事をしたと言う自覚はあったのだが、それで相手がそこまで動揺していた事に改めて志月は驚いた。
「うん、かなり。  上の空っていうのかな。そんな感じだったわよ? 妙に落ち着きが無くて、心ここにあらずって言うか…」
 その時の様子を語る弓香の顔はやけに神妙だった。
「そう…か」
 未だに自分自身やその周囲の状況がまるで把握しきれていない志月には分からない、一種の緊張感がそこにはあるらしい。

  どうして、いつもこうなのだろう。

 その時志月の脳裏に過ったのは、柔らかい布で幾重にも巻かれている様な息苦しさ。
 緩やかに窒息していく感覚。
 一番大事なことを知らされず、その為に取り返しの付かない事態を招いてしまう。
 何度もその様な事を繰り返してきた様に思う。
 自分の両手の中にあるはずの大切なものが、知らない間に指の間を滑り落ちていく様な、焦燥と諦念と無力感。

「俺は、知るべき事を  いや、知らなければいけない事を知らされていない気がする」
 志月が強く親指の爪を噛む。
 そう、昨日だってそれを分かっていればこんな状況は回避出来ていたかもしれないのに。
「……」
 弓香は沈黙していた。
 彼女の喉にも、何か言葉が引っかかって出て来れないでいる様だ。
「……よく注意されていたわ、その癖」
 沈黙の末、突然彼女がぽつりと言った。
  ?」
 当然、志月には何の事だか分からない。
「本当に、今志月くんは高校生なのね  なんだか今更実感しちゃった」
「はぁ? 何だ?」
 志月が訝しげな顔で弓香を見ると、彼女は苦笑交じりに続けた。
「爪を噛む癖よ。  あなた、高校の頃はよく爪噛んでたわ。ただ、あまりにもしつこく注意されて卒業する頃には直ってたの。『爪の形が悪くなるわよ』  っ言われ続けてね」
 弓香はとても複雑な表情をしていた。
 それは、戸惑いながら話している様でもあった。
「誰に?」
 彼女の口真似からしても相手は女性の様だが、そこまで自分に対してしつこく注意してくる様な人間が、志月には思い当たらない。
「私には、今の志月君に本当にこの話をしてもいいのかどうなのか  分からないわ。だけど、知らないでいることでまた別の苦しい気持ちを負うのなら、知っていてもいいのかもしれない…と、思うの」
 そして、弓香はここで一呼吸置いて、話し始めた。
 それは、志月から抜け落ちた記憶の中核だ。
「高校時代  宏幸くんとあなたはいつも一緒にいて、そこに私の親友と私が後から加わったの。私の親友だった彼女が、二年生の後期に同じ委員会になったのがきっかけだった。修学旅行で私が加わって、それからはいつも四人一緒だった。高校を卒業して、それぞれ進学して、全員が集まる機会はぐんと減っても  
 彼女は、あなたの恋人だったの。
 最後に四人で会ったときには、婚約してたわ」
 弓香の言葉は、全て過去形だった。
 その事が、ある事実を物語っていた。
 そんな相手がいるのなら、この事態に現れない訳がない。
 付け加えて、この弓香の話し方から見てもおよそ想像はついたが  
「婚約して、その後すぐのことだった。彼女は、留学先である事件に巻き込まれて亡くなってしまったの。詳しいことは分からない…知らされなかったから。
最後に集まった空港で彼女を見送って以来、志月くんにもずっと会ってなかったから、その後のことは私には分からないけど…」
 彼女は話の中で、親友の名を語らなかった。
 親しいと言う友人の名を口にしなかった。
 それが何を指し示すのか。
 志月は質さずにいられなかった。

  その人の名前は?」

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