掌の中の明日

scene.1

  いつも、大切なもの程その掌から零れ落ちていった様に思う。

  『何が』と、問われればはっきりとした答えは返せない。

  目に見えない…けれども大切な何かが、両の掌から零れ落ちる。

  何かが、零れ落ちる。




 志月は今、都心に向かう特急の中にいた。
 最近では日課となっていた午後の外出  それを利用して病院を抜け出した。
 リミットは二時間。
 外出許可の下りている二時間を越えると、職員が彼を捜し始める。
 行動範囲の限られている今の志月が発見されるまで、そこから約二時間程度  合わせて四時間。
 それまでに志月は忍に会わなければならない。
 会って、話をしなければならない。
 昨日の事をきちんと話さなければならない。
 その無い時間の中で、志月は中継地点のターミナル駅で佳月と待ち合わせていた。
 自分名義の通帳やカード類を受け取る為だ。
 事件以後、志月の資産は彼がその運用を代行している。
 母親の監視が厳しく、志月の手許にはほとんど現金が無い。
 その為に、どうしても兄からそれを受け取っておかないと身動き出来ないのだ。
 程無く特急電車はターミナル駅に到着した。
 繁華街でもあるその場所は、買い物客、遠出する人々、学生など様々な人種が行き交っていた。
 久々の人込みに軽いめまいを憶えつつ、志月は周辺を見回す。
「こっちだ」
 聞き憶えのある声が聞こえたのでその方向へ視線を遣ると、程近い柱の影に背を凭せながら佳月が立っていた。
 手を挙げるスーツ姿の彼は、意外と周囲に景色に溶け込んでいた。
「すみません、人を寄越して貰っても良かったのですが  
  知らない間に十歳も年を取っていた兄は、以前よりずっと遠い所にいる様な気がした。
 もともと次期当主である佳月に対して、父以外の全ての人間が一段下がって接していたが、十年の年月が兄自身を更に隙の無い人間に造り上げていた。
「構わないさ、息抜きになる。どうだ? その辺で珈琲でも飲んで行かないか?」
 佳月は、およそ似合わないセルフサービスの珈琲スタンドを指差して言った。
「時間、大丈夫なんですか」
 時間で言えば志月も余裕は無いのだが、佳月の時間の無さは秒単位だ。
 今頃秘書が狼狽えているのではないか、と志月は呆れ気味に言葉を返した。
「偶には弟とゆっくりコーヒータイムくらいもらっても罰は当らんだろ。心配するな、お前の追っ手もしばらく止めてやるから」
 更にそんな台詞を返してきたかと思ったら、もう佳月の足は珈琲スタンドに向かっていた。
「兄さんが大丈夫なら付き合いますけどね、俺の用で呼び付けてますから」
 志月はそう応えて兄の後ろに続いた。
 安っぽいスタンドの珈琲。
 香りもなく、味も薄い、ただ一時足を留めるための席を買う  その為だけの色水。
 兄がこんなものを口にするのは初めてなのではないかと思った。
「何だ?」
 弟の視線に気づき、佳月は不思議そうに眉を寄せた。
「いや、似合いませんね」
 正直に感想を伝えてみる。
「社屋ビルでは、偶に紙コップの珈琲ぐらい買うぞ」
 憮然とした顔で兄は腕を組み、弟を睨む。
「そうれはそうでしょうが、似合いませんね」
 それに怯む様子もなく、志月は僅かの揶揄を含ませて言葉を重ねた。
「……。お前もな」
 弟のその様に、諦めたのか呆れたのか、佳月は肩をすくめた。
「俺は普通に友人連中と寄り道しますから、もっと機会がありますよ」
 志月は公立の学校に進んだ分、佳月より遥かにファミレスやファーストフードの店に立ち寄る機会が多かった。
 少なくとも、今自分たちがどのくらい周囲から浮いてるか自覚出来る程度には、訪れている。
「まぁいい。  とりあえず、これがお前のカードや通帳類だ。渡しておく」
 佳月が紙の小さな手提げ袋をテーブルの上に置いた。
「ありがとうございます」
 それを受け取ると、志月は中身も改めず鞄に仕舞った。
「で、どうするんだ? 父さんはあまり口を挟む気は無い様だが、母さんは本気で妨害するつもりだぞ」
 彼が質したのは、忍の今後の処遇についてだ。
 問いを発する佳月の声はゆったりとしていたが、内容は決してそうではなかった。
「いつだったかな。少し前にも朝から病室に来ましたよ。…でも、最近はすっかり見ないな」
 答える志月の声もまた平静を装っていたが、悪化してゆく状況に内心焦燥感が増すのを感じずにはいられなかった。
 この兄弟の母はとにかく極端な人間だ。
 彼女の目に映るものは、全て彼女の価値観で以て認められるもので無ければいけない。
 選民意識が服を着て歩いている様な人間だった。
 言うなれば、長い時間を掛けて純粋培養された温室の花だ。
 温室の外のもの全てが、彼女にとっては汚らわしいものでしかない。
 己の価値観で造り上げた小さな箱庭の中でしか生きる事が出来ないのだ。
「早く手を打たないと、彼女の二の舞になる  
 佳月が何気なく呟いた。
 その怜悧な智謀を備えた眉の上に僅かな翳りが差す。
 志月の記憶の中の兄は、常に完璧な人間だった。
 どの様な難題も、彼の前に立ちはだかることは出来ない様な  
 その兄にさえ、母は手に負えないのだ。
「彼女…?」
 それにしても引っ掛かるのは、佳月の言う処の『彼女』とは誰なのかと言う事。
「あ、  いや、あの人は強引だから気を付けた方が良いな。血の繋がった母親ながら、難しい人だ」
 佳月の視線が、僅かに志月からずらされる。
 彼は弟の問いに対して、『彼女』の示す先を素早く母親と摩り替えようとした。
 しかし、志月はその一瞬を逃さなかった。
「つまり、母さんがその『彼女』に『何か』したんですね。
 そして、このままだと忍もその『彼女』と同じ事になる  と言う事ですか」
 それが一体誰を指しての言葉か、志月はまるで思い出す事は出来ない。
 ただ、瞬間的に志月の脳裏を、ピンと背筋の伸びた少女の後姿が掠めた。
 それは、具体的な像を結ぶ前に掻き消えてしまったが。
 その誰かを、母親が手酷く攻撃したらしい。
 彼女の小さな箱庭に収まらない誰かを、兄が口にするのを躊躇う様な方法で排斥したのだろう。
 それだけは、容易に推し量ることが出来た。
 そのくらいの事はやりかねない人間だ。
「…ま、ああいう人だからな。何をするか分からん。  いや、見当は付くんだが、止められん」
 佳月は紙コップに口を付けて湯気を吹いた。
 その表情は、コーヒーよりも苦い何かを飲み込んだ様だった。
「そうですね…」
 志月もまたコーヒーを口に含んだ。
 兄はしばらく沈黙した後、急に小さな笑いを零した。
  ? 何ですか、いきなり」
 志月が訝しげに視線を向けると、兄は笑いながら口を開いた。
「すまんすまん。いや、昔から母さんはお前の事は猫可愛がりだったなと思ってな」
 いきなり何の話を  と、志月はますます訝った。
「はい?」
 この兄は、突然何を言い出すのやら  
「妙に固執すると言うか、ベッタリというか  
「それは兄さんの事じゃないですか。後継ぎ意外興味ありませんよ、あの人」
「それだよ、それ。私に対してはそれは大きなプレッシャーがあったのだろうね、常に毅然として、それでいて次期当主として立てて接していたさ。だが、おまえに対してはもっと  言葉は悪いが無責任に接する事が出来たんだ」
「無責任  ですか」
 まだ笑いの止まらない兄の顔を憮然として志月は睨んだ。
「言葉は悪いがね。『後継者』ではない子供  つまりどれだけ甘やかそうと、何だろうと構わない。純粋に自分の子供として接する事が出来るのはお前だけだから、仕方ない」
 自分の思いのままに出来る子供  それが志月だったと兄は言いたいらしい。
「……」
 確かに、佳月には常に何人もの教師が付いていた為、母があれこれと口を挟む隙など無かったのだろう。
「その執着故に、余計お前から何もかも取り上げてしまうんだ。あの人は」
「……」
 志月は答えに詰まってしまった。
 窮屈な家。
 敷かれたレールから1ミリとて逸れる事を許されない。
 佳月程ではないにせよ、志月にも志月の役割が課せられていた。
 どうやって自分がそのレールの溝から外れる事が出来たのか、今の志月には思い出す事が出来ない。
「さて、お互いそう時間のある身では無し  そろそろ行こうか」
 そう言って立ち上がった佳月はもう兄の顔ではなく  それは長い間見てきた『総帥』の顔だった。
  そうですね」
 志月も立ち上がる。
 母の想う処は分からないでも無かったが、それだからと言って他人を傷つける理由にはならない。
(人を傷付けて良い理由にはならない)
「ありがとうございました、兄さん」
 駅外のロータリーへ向かう佳月の背中に声を掛ける。
「何かあったら電話してこいよ」
 右手を上げ、彼は迎えの車に乗り込んだ。
 その後姿に、もう一度頭を下げる。
 あの窮屈な家の中で、唯一の味方。
 運転こそ秘書にさせてはいるが  いや、運転手さえ使わないと言うべきか  相変わらず一般社員用の社用車で移動している兄の車を苦笑しつつ見送ると、志月は川島家へ向かうべく再び駅構内に入って行った。

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