scene.5

 六月も終わる、そんな日の夕暮れ。夏至も間近だ。
 かなり日も長くなってきているものの、さすがに午後七時ともなると、太陽はその残照をビルとビルの隙間に覗かせるばかりであった。
 忍は、昼過ぎくらいから午後五時の閉館までは都立図書館で時間潰しをしていた。
 その後は用事も無いのにデパートの中をうろうろし、それもたった今閉店時間の為に追い出された処だ。
(何処に行こうかな)
 宛てなど無いのだ。
 あの場を飛び出したのは勢いだったが、聞いた話が本当の事ならどの道これ以上いられる訳も無い。
「どうしようかな」
 いっそ、生まれた街へ行ってみようか  そんな考えが脳裏を過った。

 遥か西の、海に程近い  
 
 今ならば丁度夏祭りに時期だろう。
 夏の夕空の下、御囃子を鳴らしながら神輿を担いだ若衆が町を練り歩く。
 憶えてもいないのに、何故かそれは郷愁を誘うのだった。

 財布の中を見る。
「何とか切符は買えそう…」
 今からなら、新幹線の最終狙いか。
 それとも夜行か。
 とにかく、急いでこの街を離れようと思った。
 離れられるなら、何でも良かった。
 その時だ。
 背後から突然肩を叩かれた。
「こんばんは、東条君」
 そこには坂口が立っていた。
 いつも教室で見せているのと同じ、人懐っこい笑顔だった。
「今日はおうちの用事だったの? あれきり帰ってこなかったけど…」
 少し心配げな様子で坂口が言った。
「うん、まぁ…坂口は、予備校の帰り?」
 見ると、彼もまだ制服を着ていた。
「そうなんだ。  もう参るよ。二年生だって言うのにちっとも成績上がらなくて…東条君は何だか、サラッとやっちゃいそうだよね。羨ましいなぁ」
「さすがに、何もしてない訳では…」
 坂口の言葉に思わず忍は苦笑してしまった。
「あ、ごめんね? そうだよね。  あ、ねぇ東条君、これから時間あるかなぁ?」
「え?」
「忙しかったら、いいんだけど! その…よかったら一緒に買い物、行かない?」
「買い物?」
 席は近いが、それ程親しいという感覚が無かったので、突然の誘いに少し驚いた。
「うん、駄目かなぁ?」
 しかし、彼と忍の間の席に座っている不動の図々しさが一瞬過り、それに較べると何とも控えめな誘い方をする坂口が随分いい人間に見え、ついOKしてしまった。
「良いよ、どうせ時間余ってたし」
「ほんと!? よかった!!」
 級友は丸い顔を更に丸くして無邪気な顔で喜んだ。
 昨日今日と、忍にとって重い話ばかり続いていたので、この微笑ましさにほっとした。
「それで、何買いに行くの?」
「うん、僕がいつも教室で食べているサプリメントあるでしょう? アレ売ってるお店に行こうと思って。他にも健康食品も扱ってるし、小さいけどカフェもあるんだよ」
 嬉しそうに歩き始めた彼の足取りに、忍は「余程そういうの好きなんだな」と少し呆れ気味に、それでも感心した。
「実は、いつも東条君に声を掛けようとすると、何だか不動に邪魔されちゃってなかなか話せなかったんだー」
「去年も同じクラスだったじゃないか」
 忍は、坂口の言い様に苦笑した。
「去年は、なんだか声掛けづらい雰囲気だったもの」
「そうかな。…でも、何で俺とそんなに話したかったの?」
 忍には、何よりそれを不思議に思った。
「えー? だって、東条君は頭良いし、僕みたいに運動音痴じゃないし、綺麗だし  憧れるよ」
 面と向かって臆面も無く美辞麗句を並べ立てられ、忍は反応に困った。
「え、と…」
「あ、そうだ! 予備校とかは通ってる?」
 返事に困っていると、坂口は勝手に更なる話題を振ってきた。
「いや…」
 人の話を聞いてるのか聞いてないのか分からない坂口の喋りっぷりに、少し面食らいながらも忍は何となく返事を返した。
「そうなんだ! じゃあ、同じところ行こうよ! 僕、駅前の『進藤ゼミナール』に通ってるんだー」
 意外な勧誘に、少し戸惑う。
「いや、その」
「あ、家庭教師なの?」
 彼は、更に一人で会話を展開させた。
「まぁ、そんな感じ…」
 もう適当で良いや、くらいの返事を 返し、ふと考えた。
 中学校くらいまでは志月に教わっていたが、その後は自分で勝手にしているだけ。
 ただ、人よりも視界が狭く  活字の中にしか世界が存在しなかったので  普通に生活している人間より吸収率が高かっただけだ。
(あんまり本格的に受験勉強って名前の付く事、やったことないんだよな…)
「そっかぁ、残念」
 坂口が目に見えてしょぼくれた。
 こんな風に他意の無い好意を向けられるのは、少なくとも嫌な気持ちではない。
(いや…ちょっと昔まではとても苦手だった。だから、坂口の事、よく憶えていないのかも知れない…)
 話題が受験と成績の事ばかりなのが気になりはしたが、今、こうして話していると坂口は無邪気で、思ったよりずっと話しやすい。
「そうそう、東条君にもあげる! これ、この間教室で渡し損なったから」
 坂口が鞄から教室でよく口にしているサプリメントを取り出し、にっこり笑って包み紙を忍に手渡した。
「あ…ありがとう」
 それを、忍はとりあえずポケットに仕舞った。
 その様子を坂口がじっと見ていたので、「家に帰ってから食べるね」と言葉を付け足した。
 そして、進路問題や先日の中間テストの事など話しながら歩いているうちに、徐々に繁華街を離れ、裏道へ入っていった。

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