scene.3

 鳴沢弁護士は自らの車に忍を乗せ、静かな喫茶室へと移動した。
 そして、各々のオーダーが出揃った処で、鳴沢が話を切り出した。
「単刀直入申しますとね、今の状態を清算して頂きたいと言う事なんですよ」
 弁護士はそう言いながら、おもむろに黒革の鞄から大判の封筒を取り出した。
「は…?」
「このままの状態が続きますと、いずれ親族内で揉めますので  なるべくその種は取り払っておきたい、ということです。これは東条家の総意です」
 眉一つ動かさずに、弁護士は言い放った。
「もちろん、戸籍を切って頂いて  その後、東条家に対して関わらないで頂けるという事であれば、これからの生活や将来の事も保障いたしますよ」
 その喋り口こそ丁寧なものの、彼は忍に対して、身分卑しき相手への侮蔑の色を表していた。
 所詮、金目当てだろう。そんな風に言われた様な気がした。
 確かに、第三者の立場で考えたとしたら、忍の立場など、そんなものだろう。
 それに関して、忍は反論するつもりは無い。
 しかし、今の話の中に、一箇所気になっている部分があった。
「あなたは、総意と言いました。
 それは、今入院している志月も含めての総意ですか?」
 日常、平凡な単語の一つ一つを盾に闘う事を生業としている弁護士。
 それが『総意』と言うのなら、間違いなくそうなのだろうが、念の為に確認を取った。
「そうです。  これはむしろ志月さんの申し出ですよ。今後の生活にも不自由がない様に、と。昔から、お優しい方でしたからね」
 その瞬間鳴沢氏が見せた、「這い蹲って感謝しろ」と言わんばかりの張り付いた様な笑顔が、酷く癇に障った。
 弁護士とやらは交渉人ではない。
 故に、相手を説得しようとか快く引かせようとか、そういった配慮に関しては本人の裁量という事になる。
 要するに、鳴沢氏は忍を説得しようなど、欠片も思っていない。
 今ここでサインすれば、今回提示した条件は履行してやる。
 しかし、それ以上を望むなら無一文で放り出すぞ、という脅迫をしに来たのだ。
 勿論、そんな言葉を弁護士先生が口から出す訳も無いが。
「高校も、そのまま卒業させて差し上げますよ。お望みなら、進学も可能です。  ただし、在学中に名前が変わってしまいますがね」
 鳴沢氏は、汗の垂れる顔を扇子で扇ぎながら、そう付け足した。
 その声に、何処かしら嘲笑めいた響きを含ませながら。
 ここまで来るといっそ清々しいまでの失礼さで、忍は眩暈がするかと思った。
 気付くと、出された書類と水の入ったグラスを同時に弁護士先生に巻き散らかして、喫茶室を飛び出していた。
 元々、忍はあまり激昂する様な性質ではなかったが、今回ばかりはそのあまりな言われ様に我慢が成らなかった。
 そもそも、最初にこちらから戸籍の件について触れた時には兄弟して引き留めておきながら、何故今更、わざわざ弁護士を通してまでこんな事を言ってくるのか。
 これではあまりにも惨めではないか。
 自分の立場ではなく、その気持ちが  あまりにも哀れだ。
(どうして志月が?)
 ずっと、そういう風に見ていたのだろうか。
 忍が、己の保身の為に残ったのだと、思っていたのだろうか。
 他の誰にどう思われても良い。
 それでも、志月にだけはそんな風に見られたく無かった。
(必要無いと思ったなら、直接そう言えば良いじゃないか)
 将来の安泰なんて要らない。せめて志月の口から聞きたかった。
 昨日の今日で、いきなり弁護士を立ててきてこんな話をされるとは、どれ程自分が見損なわれていたのか、と忍は情けない気持ちになった。
(それとも…昨日、あんな風に逃げ出したから…?)
 自分の思うようにならないなら、必要無いと思ったのだろうか。
 本来の志月は、そんな人間だったということか。
(そんな)
(でも  
 度々、行き過ぎた悪戯を仕掛けてくる志月。
 忍はそれをただの無邪気さだと思っていた。
(それが、本当は全て悪意だったとしたら  ?)
 悪意を込めて、忍を揶揄っていたとしたら。
 全て、本当に面白がってしている事だったとしたら。

  何もかも分からなくなった。
 
 この時、忍はすっかり冷静さを失っていた。
 もし、いつも通りの冷静さが半分でもあったなら、少なくとも、先刻の様にいきなり弁護士の顔に水を掛けて飛び出すような真似はしなかっただろう。
 せめて、志月本人に事の真偽を確かめるくらいはしたはずだ。
 全ては、悪魔が仕掛けたようなタイミングだった。
 昨日の出来事は、二人の間に流れているぎこちない空気を、霧散させる機会にも成り得たはずだった。
 しかし、この事で事態は逆方向へ流れた。
 忍は、この時初めて志月を疑った。
 出会ってから初めて、彼の好意そのものを疑ってしまったのだ。
 このまま何処かへ掻き消えてしまいたい、と思った。
 その衝動は、もう抑えられなかった。
 闇雲に駆け出した忍の足は、川島家にも学校へも向かわず、行く当ても無いまま真昼の雑踏の中に溶けて消えた。

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