scene.4

 忍は、午後六時頃帰宅した。
 弓香は、いつもと変わらず食事の支度をしていた。
 料理が佳境に達しているらしく、弓香はドアの音にまるで気付いていない。
 玄関まで湯気が漂っていた。煮物の匂い。
 楽しげな鼻歌。
 きっと彼女はまた踊る様に料理をしているのだろう。

  ほっとした。

 忍は、玄関でしばらくそれらの音を聴いていた。
 優しい音。
 全てを包み込んで、赦してくれる様な音だ。

 どのくらい、そうしていただろう。
 突然、電話がけたたましい音を立てた。
「あっ!」
 驚いて、忍は鞄を取り落とした。
 電話を取るべくキッチンから出てきた弓香が、忍の顔を見てびっくりしている。
「やーだ! 帰ってたの!? 全然気付かなかったわ。
 あ、ちょっと待っててね。先に電話済ましちゃうから。
  ハイ、川島です! あ、なーんだ宏幸くん? え? うん、分かった! じゃね!」
 電話の相手は宏幸の様だが、奥方は用件のみを受取り、さっさと受話器を置いた。
「さて、と…それじゃぁ改めて。
 忍くん、お帰りなさい! ちょうどご飯出来たところよ」
 床に落ちた忍の鞄を、弓香が拾った。
「あっ、すみません」
「いいわよ。それより、早く着替えてらっしゃい。ご飯にしましょ。
 宏幸くんは、大分帰りが遅くなるみたいだから。ううん、ひょっとしたら帰ってこれないかもしれないわね」
 宏幸は、然る大御所先生の原稿の取立てをしなければいけないらしい。
 相当〆切を押しているそうだ。
 その日の夕食は、弓香と二人きりだった。
 彼女の中で、自分の夫の予定は予測出来ていたらしい。
 品数こそいつも通りだが、その量は全体的に少なめだった。
「忍くん、どうしたの? なんか顔色悪いよ?」
 忍の箸があまり進んでいなかった。
 弓香はそれを心配している様だ。
「そうですか?」
 忍は、なるべく平静を装って答えた。
 顔は上げれなかった。
 勘の良い弓香には、表情から何もかも読み取られてしまう様な気がした。
「うん。何か元気がないよね」
「気のせいですよ。蛍光灯は顔色悪く映りますから」
 テーブルの真上からぶら下がる電灯を指差した。
「そうかなぁ。ねぇ、何かあったのなら言ってね? 何も解決しないかもしれないけど、一人で考え込んでいるよりは、何かいい知恵が浮かぶ事もあるし…」
 尚も気懸かりな様子で、弓香が忍の顔を覗き込んだ。
「本当に何でもないんです。  ただ、この間まで試験だったから…疲れが出ただけですよ」
 忍は、なるべく隙の無い笑顔を作り、弓香の追求を遮った。
 表情を作る。
 最近では珍しい行為だ。
「そう?」
「はい。  せっかくの夕食…申し訳ないですけど、残しても構わないでしょうか」
「それは、いいけど…ホントに大丈夫?」
「大丈夫です。…ごちそうさまでした。すみません、今日はもう寝ますね」
 食器を一まとめにして席を立ち、忍は素早くそれを流しへと運んだ。
「うん…。あ、食器そのままでいいからね! 早く寝んで?」
 食器を洗い始めた忍を、慌てて弓香が止めた。
「え、でも」
「いいから、体調の悪い子はさっさと寝るのよ」
 強い調子の制止に、忍も気圧されてようやく手を止めた。
「…すみません」
「謝ることないけど…でも、ホントに大丈夫?」
「はい。  おやすみなさい」
 その時、忍は一体どんな表情をしていたのだろう。
 あの弓香が、痛々しげな表情で声を詰まらせるなど。
 何時、どんな状況であっても明快な彼女が、言葉を失ってしまう様な  そんな顔をしていたのだろうか。

  気遣わしげにしてくれる優しい人達。

 気付くと、そういう人間が忍の周りに増えてきて、思えばここ最近は随分甘やかされていた様に思う。
 今もまた。
 けれども、その事を顧みる余裕が、今の忍には無かった。
 何処か投げ遣りな気持ちで身に付けていた衣服を取り、夜着に替えた。
 素早く明かりを落とし、深く布団に潜り込む。
 固く目を瞑り、深呼吸を繰り返す。

  掴まれた腕の強さ。

  頬を包む掌の温度。

  触れた口唇の感触。

 鼓動は早く、大きくなり、焦燥感を急き立てる。
(忘れなきゃ)
 また揶揄われたのだと、昼間の出来事を頭から振り払おうと、より固く目を閉じる。
 これまでも、志月はわざと好意的な言葉を発したり、態度を示したりして忍の反応を楽しんでいる節がある。
 だから、今日の事もきっと特に他意の無い悪戯だったのだろう。
(でも、これは少しタチが悪すぎる…)
 無邪気な子供の様な今の志月。
 彼は、時折残酷な悪戯を仕掛けてくる。
 忍の肌に触れる感触の一つ一つが以前と何も変わらないと言うのに、彼だけがそれを知らない。

  『悪い…』

 あの瞬間に忍が彼に示した反応は、仕掛けた本人の予想を超えていたのだろう。
 だから、彼は自分のした悪戯を、素直に謝ったのだろう。
 しかし忍にとっては、謝られた事の方が、行為そのものよりも、より深く胸に突き刺さった。
 今の彼にとってそれが謝罪すべき行いなのだと言う事が、より深く忍を傷付けていた。
「……っ」
 泣き喚きたい衝動を、精一杯噛み殺す。
 襖一枚隔てた向こうには、弓香がいる。
 食器を片付ける音。
 流し台に流れる水の音。
 薄い仕切りの向こう側では、いつも通りの時間が流れている。
(こんなところ、見せたら  きっと心配する)
 只でさえ、先刻も元気が無い、と心配そうな顔をさせてしまったのだ。
 気付かれてはいけない。
 弓香や宏幸に  
 千里や北尾にも  
 誰にも。
 優しくしてくれる全ての人達に、気付かれてはいけない。
 口唇を固く噛み締め、息を殺した。
 涙は溢れたりせず、目の淵に滲んでは消え、滲んでは消え、何度もそれを繰返した。
 止め処なく流れ落ちる涙なら、その方がまだ良かったのだ。溢れ出して、全てを洗い流してくれるならば、その方がずっと良かった。
 胸の奥に沈んでゆく鉛の様な想い。

 空に月は無く、ただ暗いばかりの夜。
 忍は猫の様に身体を丸くしてやり過ごす。
 夏だというのに、一人で眠る床は、やけに冷たく感じた。
 忍自身の身体には、体温が無くなってしまった様にさえ思える程。
 何度も寝返りを打ち、布団を被り直す。
 固く閉じた目の中で、泡沫の様に浮かんでは消える、彼の人の影を振り払う。
 どうしようもないわだかまりを抱えて、夜は更けていった。

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