scene.2

 土曜日の午後、忍は丘の上の病院へ向かう電車の中にいた。
 心地好い振動。線路の繋ぎ目を踏む、規則的な揺れ。
 窓の外は、嫌に成る程明るかった。
 初夏の陽射し。萌える木々の緑。田んぼの照り返し。
 外は暑そうだ。
 忍は、志月の待つ病院が近づくにつれ、徐々に鼓動が早くなるのを感じていた。
 息苦しくなる。
 酷い眩暈に襲われる。
 逃げ出したい衝動に、忍の心をは絡め取られてゆく。
 つい先日には、会いたくて堪らず、会いに走ったというのに。
 彼が忍に向ける、剥き出しの好意。

  理由は分かっている。

 会いたくなる理由も、会いたくない理由も、同じ場所へ帰結するのだ。
 残酷な優しさが、忍の身体をやんわりと締め付けている。
 彼が惜しみなく忍に向ける、忍が抱いているものと、種類の違う好意。
 それは、無邪気さに包まれた凶器だった。

  選んだのは自分自身だ。

 緩く首を横に振る。
 忍は、目を閉じた。
 外の景色が眩し過ぎて、目が痛い。
(ああ、でも…志月に手を引かれてあの町を出たのも、こんな日だった)
 今は初夏だが、彼の日は初秋だった。
 その頃も、外はまだ暑く、ツクツクホーシが鳴いていた。
 迎えに来た志月の熱い手が、幼い忍の手をしっかりと握った。
 生まれ育った町に別れを告げた日。
 新しい名前を与えられた日。
 それは、忍が、生まれて初めて長旅をした日でもあった。
 電車に乗って。お弁当を買って。山を見た。海も見た。
 志月は、微笑っていた。
 痛い程、外は良い天気だった。

 陽光に晒されて、封じていた気持ちが解けてしまいそうだ。
 長い時間、飲込み続けた言葉が咽喉の奥で引っ掛かる。
 その言葉が届く日は、きっともう、永久に来ないのだろう。
 忍が、自分自身を焼き払い、彼の記憶からその存在を消し去った日から、その言葉は中空を彷徨っている。

 気に入ってくれている。それは分かる。
 しかしそれは、今の志月が忍に向けているのは、他意の無い好意なのだ。
 忍が志月に向けているものとは、或いは、彼に望んでいるものとは、形が違っていた。
 傍に居られるのならどんな形でも構わない。
 そんな風に今はまだ自分を誤魔化せる。
 けれど、これから先はどうだろうか。
 この先、いつまで続くか分からない長い時間、自分を欺き続けられるだろうか。

  無理だ。

 それが出来ていたなら、忍は全てを焼き尽そうと思わなかっただろう。
 誤配送されてくる別人宛の好意を、受け取り続ける事が出来たはずだ。
 出来なかったからこそ、今のこの現実がある。
(やっぱり、離れなければいけないのかな…)
 忍は、志月とその兄佳月に請われるまま、残っていた。
 勿論、忍自身の希みでもある。
 けれど、それももう止めるべきなのかもしれない。
 このまま傍に居続けたなら、いつかは言ってしまうだろう。
 長い時間封じてきた言葉を、解放してしまう。
 そして、今度は忍の方が志月に望む様になる。
 より深く結びつく事を。
 後戻りの出来ない道を。
 それはおそらく受け容れられないだろうが、もし、志月がそれを受け容れたとしても、その先にはまた別の破滅が待ち受けている。

  そうして いつか 自分自身の手で 何もかも壊してしまう日が くるのだろう。

 それは、身の竦む様な恐怖だった。
 忍は無意識に両腕で自分の身体を抱きしめていた。
 忍自身も、全てを喪うのは怖い。
 しかし、それ以上に、忍はもう二度と志月が壊れていくのを見たくないと思っていた。
 だから、この距離を守れないなら傍にいるべきではない、と思い始めていた。

 電車は山間の路をひたすら滑ってゆく。
 乗客の数も、今は少ない。
 藤ノ谷の駅は、もうすぐだった。

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