偶然の凍結
scene.1
午前十時
溜息を一つ落とし、志月は身体を横にした。
何もしていないのに、身体が酷くだるい。
長い期間入院している所為で、随分体力が落ちている様だ。
正直な話、志月自身にももう何処が悪くて入院しているのか分からない。
外傷はほとんど治癒している。
後は戻らない記憶だけだ。
それでも退院の許可が降りなかった。
おそらく母親が外へ出さない為にそうしているのだ。
今のこの状態で、親族や関係者に接触する事を避けたいのだろう。
そして、彼女は同時に別の事も恐れているはずだ。
志月は、退院したら元々そうしていたと聞いた通り、忍と暮らすつもりをしていた。
桜川の屋敷が焼けてしまったという事だから、住む場所を探さねばならないが。
母は、志月が忍を連れて実家を出る事を、何としてもそれを阻止しようとするだろう。
ところが、忍を手放すの手放さないの話で、二ヶ月程前に病室に訪れて以来、母親はぴたりと病室に訪れなくなっていた。
先代の当主だった父親よりも、遥かに体面を気にする彼女の事だけに、あまりに音沙汰無いのは不気味に感じた。
このままでは終わらない。
そう感じていた。
影で、何かとてつもない事を企てていなければ良いのだが。
つらつらと考えているうちに、日はすっかり正午の橋を渡ったらしい。
南向きの窓に、徐々に陽光が差し始めている。
午後の陽射しは金色だ。
午前中の蒼を含んだ光に較べると何処か褪せた様な色をしている。
遠い記憶の扉を引っ掻く様な色をしている。
気が、遠くなる。
志月は、ゆっくり目を閉じた。
眠りの窓の向こうに、記憶の扉は存在するだろうか。