水面の下を流れるもの

scene.1

 その日の朝、志月はやけに早く目を覚ました。
 いや、起こされた。
 母が訪れたのだ。
 寝台の横に立つ母親は、控えめな色の小紋に道行を羽織っていた。
 すっきり結い上げられた髪を櫛で留め、他に飾り気は無い。
 無駄な飾り物は昔からあまり好まなかった。
 十八歳で女学校を出、先代当主に嫁した彼女は、今年で五十歳になる。
 外見は実年齢より十歳近く若く見えた。
 引き結んだ口許が、とても気の強い印象を与える。
 目許は更に鋭く、付け入る隙が無い。
 一見しただけで、プライドの高さと意志の固さが伝わってくる。
 親戚が口を揃えて言うには、佳月は父親似、志月は母親似だそうだ。
 そうは言われても、自分自身では実際に彼女と自分がどう似ているのかあまり分からなかった。
 自分はこれ程までに頑なな顔なのだろうか。
 眼前の人物の顔を、志月は見つめた。
 そして彼女は、起き抜けの息子の顔を見つめ返して溜息を吐いた。
「まぁまぁ、何ですか! ぐうたらといつまでも惰眠を貪って。いくら入院中とは言え、生活は規則正しくなさい」
 開口一番、その口から発せられたのは、息子の不摂生な生活を咎める言葉だった。
(そう言われても、入院というのは普通身体をゆっくり休めるためにするものじゃないのか…?)
 それでも、昼夜が返る程生活規則を乱しているのならば咎めの言葉も甘んじて受ける。 しかし、改めて覗き見た時計の針は、朝の七時を指している。
 平常も、八時には起きている。
(寝坊呼ばわりされる程の時間でも無いと思うんだがな)
 口には出さなかった。
 逆らっても無駄な相手だ。
 それは重々承知しているので、今更反論はしない。
 何か矛盾を感じて仕方が無いのは否めないが。
 それはそれとして、ここ最近、母は頻繁に志月の病室を訪れていた。
 どうやら院内の誰かの口から、忍の事が耳に入った様だ。
 ただ、これまでの処、話題が忍の事に及ぶ場面は無かった。
 今された様な日常生活に対する注意喚起や、他愛も無い思い出話をするだけだ。
 しかし、今日は様子が違うらしい。
 常にも増して、母の表情に隙が無い。
 話すべき事を決めてきた様子だ。
「今日は単刀直入にお話しさせて頂きますよ。今までは極力口にしないよう務めてきましたが  
 彼女がそう切り出した時、志月は気付いた。
 所定の時間を過ぎても、検温に来るはずの看護士が現れない。
(既に人払い済みという事か)
 周到な事だ。
 志月は舌打ちでもしたい気分になった。
 いつもこうだ。
 事前に周囲を有利な状況にしておいて、選択権の無い問いを質しに来る。
 こんな朝早くに現れたのも、職員を遠ざけたのも、父や兄に介入させない為だろう。
 院内に、母の指示を負う者がいるなら、父や兄の指示を仰いでいる者も当然いるのだ
 特に、兄と繋がっている者に話を聞かれないように、わざわざ人払いまでしたのだ。
 全職員を遠ざけた事で、この部屋には誰の配下も近付く事が出来なくなった。
「何のお話をなさると?  
 問わずとも分かっていた。
 今日こそ、母は忍の処遇を決めるつもりだ。
 志月はわざと素知らぬ振りで母に問うた。
「もちろん、あなたが手許に置いている子供の事ですよ」
 彼女は、さらりと答えた。
 今まで母が忍の話題を避けてきたのは、その点に関してのみにおいて、志月の記憶が戻る事を望まないからだ。
 だから、殊更気に懸けつつもその話題には触れなかったのだ。
 下手に刺激を与えたくなかったのだろう。
 けれども彼女は今、敢えてその危険を冒した。
 母の面は極めて平静を装っていた。
「全く  あなたとい言い、佳月さんと言い、親に黙って何ですか。あまり勝手が過ぎるとお父様にご迷惑が掛かりますよ。
 特に志月さん、今のあなたに言っても憶えていない事でしょうし、仕方ないのだけど、佳月さんにあまり無理を言うものではないですよ。只でさえ忙しい身なのですから」
 まず、話は簡潔な注意から始まった。
「はぁ…、それは  すみません」
 母の小言に対して、反射的に謝罪の言葉が口を衝いて出た。
 しかし、彼女自身も述べている通り、その部分に関して記憶が無い志月に、その実感は無かった。
「まあ、いいでしょう。
 それで、提案なのだけど  その子供、せめて手許からお離しになったら如何?」 
 何の抑揚も無い口調で、ペットの話でもしている様な口調で  いや、それ以上の軽さで、母が言った。
 名前くらいとっくに調べてあるだろうに、敢えて「子供」と言う。
 そこには、彼を一個の人間として認めない、そんな考えが表れていた。
 血の繋がった母親だが、志月は彼女のそういう面を好ましく思わない。
 それは、今より  実際に十七歳だった頃よりも遥か昔からだ。
 彼女は、自分の価値観でしか物事を見る事が出来ないのだ。
 自分にとって無価値なものは、全て排除の対象でしかない。
 それを己一人の事に留めてくれていれば良いのだが、志月や佳月にも同じ価値観を強いてきた。
 特に、時期当主として常に数人の教育係が付いていた兄よりも、やや自由の利いた志月に対してその傾向は強かった。
 志月は、それをどうしても受け容れる事が出来なかった。
 幼い頃に封じられた数々の事柄が頭を巡った。
 そして、自分自身の儘ならない悔しさと共に、忍へ向けられた蔑視への憤りを感じた。
 しかし彼女は、志月のそんな感情にはまるで気付かず、更に言葉を繋いだ。
「本来ならあなたもとうに二十歳を過ぎた成人ですし、私がとやかく言う事ではないのでしょう。けれど、今あなたの心は十七歳です。あなた自身が子供に戻ってしまったというのに、同じ年の子供を看る事が出来ますか?」
 母は、最もらしく理由をこじつけた。
(言ってる事はそれらしく聞こえるのに、『こじつけ』と思ってしまうのは何故なのだろうな  
 一方的な都合で、そんな事が出来るものか。
 犬や猫の仔ではないのだ。
 面倒を見切れないから、他所へやる  そんな問題ではない。
 第一、他ならぬ志月自身が彼を傍に置きたいのだ。

 未だ理由は分からない。
 何も知らされていない。
 思い出す事も出来ない。
 ただ、身体の奥の方に、小さな種がある。
 そこから出る芽が、どんな木に育つのか、どんな実が生るのか、今はまだ分からない。
 今はただそれを大切に育てたい。
 そんな気持ちがあるだけだ。
 無論、彼が同じ様に望んでくれればの話だが。

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