scene.6

 忍が、川島家に帰り着いたのは午後八時過ぎだった。
 それでも、タクシーで都内まで戻ってきた分、電車で移動するより一時間近く早く戻ってこれた。
「お帰り~、ご飯出来てるよ!」
 玄関で弓香が出迎えてくれた。
「宏幸さん、帰ってます?」
「今、お風呂入ってるわよ。どうしたの?」
「志月からフィルム預かっていて  練習用の分なんですけど」
 鞄の中から、先刻預かった半透明のフィルムケースを取り出す。
「あら、すごいじゃない! 昨日宏幸くんが行った時は、かなり戸惑ってたみたいよ?」
「そうなんですか?」
「玄関先でいつまでもこうしていても仕方ないわ! さ、早く上がって」
 弓香は忍の手から学生鞄を取った。
「制服、脱いでいらっしゃい。おかずを温めておくから」
 弓香の笑顔を見ているとホッとする。
 外から帰った子供が母親の顔を見て安堵する様に  
 制服から室内着に着替えて自室を出ると、宏幸がちょうど風呂から上がってくるところだった。
「おっ? 帰ってたのか、お帰り!」
「ただいまです」
 小さく頭を下げ、忍はキッチンに入っていった。
「何かお手伝いできる事ありますか?」
「もう出来上がってるものだから、こっちは大丈夫よ。それよりさっきの、宏幸くんに渡してあげて?」
 なるほど、もう食事の仕度は盛り付けを残すのみの様だ。
「あ、そうか。  川島さん、志月から預かり物があるんです」
 忍は足早にダイニングへ戻る。
「何だい?」
「これなんですけど  
「お? おお!? フィルム!?」
 驚いたのか、宏幸は派手に椅子を鳴らして立ち上がった。
「もう! 宏幸くん、お行儀悪い!」
 キッチンから弓香の叱咤が飛んできた。
「おっと、悪い」
 宏幸は、静かに椅子に座り直した。
「へえええ! そうかぁ、ふーん」
 振ってみたり、蛍光灯で透かしてみたり、宏幸はしげしげとフィルムケースを見つめている。
「その…、練習用らしいですけど…」
 宏幸が予想以上に大袈裟な反応を示したので、忍の方が焦ってしまった。
「いやいやいや  練習くらいはする気になったんだ! そうかぁ」
「何でそんなに驚いてるんです?」
 あまりにも宏幸が大げさに騒ぐので、忍は驚いて理由を質した。
「いや、昨日俺も志月んとこ行ったんだ。それで、いきなり仕事の話持ってったのもマズかったんだろうけど、もうカメラ持つの自体渋っちゃって、全然駄目だったんだよ」
 宏幸が肩を竦めた。
「…そうだったんですか」
 確かに、今日もかなり躊躇ってはいたが、そこまででもなかった。
 一晩明けて、大分気持ちの整理が出来ていたのかもしれない。
「ありがとうな、ちょっとでもその気にさせてくれて」
 宏幸が真剣に頭を下げた。
「え、ちょっと待ってください! 俺は何もしてませんよ!?」
 今度は忍が椅子から跳ね退いた。
 別に自分が何かした訳でもないのに、礼など言われると居心地が悪くて仕方ない。
「いや、例え練習でも撮る気になってくれて良かった」
 そう言って、宏幸が笑った。
 宏幸が今喜んでるのは、編集者としてなのだろうか。
 それとも、友人としてなのだろうか。
「はいはいはい、そこまで! とりあえずご飯にしましょ! 宏幸くんは胸いっぱいでも、私も忍くんもおなか空いてるのよ!」
 話を切る様に弓香は、テーブルに夕食を並べ始めた。
 その日の夕食はいつも以上に凝った料理が並んでいた。
 それは、新しい年度が始まるその日に対する、ささやかな弓香の激励の顕れだった。

  今日から、新しい日々が始まる。

 自分自身も、千里や北尾も、そして志月もそれぞれ足を踏み出した。
 忍は身体の中心に、力を溜める様に、大きく深呼吸した。

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