scene.5

 志月は内線で受付に連絡を入れ、外出申請を出した。
 そしてエレベーターで一階に下り、受付で外出証を受け取る。それは首から提げられるようにストラップの付いたポケットベルのような形をしていた。
「ドクターからは一時間まで許可が下りています。お時間十分前にアラームが鳴ります。それではお気をつけて」
 受付の女性に送り出され、二人は外へ出た。
 小高い丘の上に立っているこの病院は、外へ出るとなかなかの景観だった。
  久しぶりだ、外へ出るのは」
 志月が身体を思い切り伸ばした。
「あんまり外出しない?」
「ん? ああ、あまりしないかな。一人で散歩してても、退屈で」
「インドアなところは変わらないんだね」
 忍はつい笑ってしまった。
 普段仕事で世界中飛び回っていたくせに、帰ってくると一歩も外へ出たがらない  
 そういう処は、記憶が無くても変わらないらしい。
「そうか?」
 声だけで答えて、志月はカメラの準備をしている。
(そう言えば、写真を撮っている志月って…ほとんど見た事無いな)
 忍はふとそう思った。
 気付いた時にはプロになっていたし、彼は仕事でしかカメラを持たなかった。
(あ…でも、一回だけこんな風に写真を撮りに行った事あったっけ…。まだプロになる前  俺がまだ小学生の頃)
 忍は作業中の志月を置いて、ふらりと歩き始めた。
(やっぱりこんな感じの夕暮れの丘の上で、レンズの向こうの志月の視線を追って  
 あれは秋だった。
 金色穂波の丘の上、陽が落ちる直前  誰彼時の黄金色。
 あの時の穂波は腰まで浸かる様な背の高い草だったけれども、ここにあるのは綺麗に整えられた芝生。
 忍は腰を落として芝生を掌で撫でた。
 その瞬間、シャッターを切る渇いた音が聞こえた。
「えっ!? あ!」
 何時の間にか志月がカメラを構えている。
「ちょっと、何撮ってるんだよ!」
 顔が熱くなる。
 きっと真っ赤になっているに違いないのだが、幸い夕陽に照らされている為、それは見えないだろう。
「撮らないと練習にならないだろう?」
 志月が意地悪く笑った。
「だからって、俺を撮る事も無いでしょう!」
 風景だってなんだっていいのでは、と忍が反論を試みた。
「俺が撮りたかったんだから、良いんだよ」
「…っ」
 臆面も無く何を言い出すのか、と忍は言葉に詰まった。
 ますます顔が熱くなる。
 それと同時に、心臓を突かれた様な痛みに襲われる。

  何も憶えていないから、言えるんだ。

 こんな瞬間、むず痒い様な嬉しさと共に、細く鋭い棘が刺さる。
「どうした?」
 目を逸らした忍に、カメラを下ろして志月は駆け寄った。
「そんなに嫌いだったのか? 写真撮られるのが  
 まるで的外れな処で志月が困惑している。
「違うんだ。  そういうのは別に平気。ごめん、何でもない」
 こういう時に人は泣きたくなるのだと忍は思った。

  優しささえもが棘の様に痛い。

  気遣ってもらうことさえ、鋭い痛みになる。

 何も知らない彼が、不用意に見せる自分への好意。
 そんなものが、酷く痛い。
 忍は大きく息を吐いた。
「何でもない事ないだろう? もう病室に戻るか?」
 心配そうに志月が顔を覗き込む。
「あ、本当に平気。ごめん」
 更にその視線から逃れようと、忍は身体を捻る。
「なら…良いんだが」
 釈然としない声が、小さく答えた。
「ごめんね…俺の所為で、志月さっきから全然撮れてないでしょう?」
 気持ちを切り替え、声のトーンを持ち上げる。
「あ、ああ。でも  
「早く撮らないと、陽が落ちてしまうよ」
 春霞の夕暮れ、太陽はその身をほとんど彼方に沈ませようとしていた。
 もう空は金色ではなく、ラベンダーのような紫色に変わっていた。
 もうすぐ、空にはビロードの夜が降りてくる。
 志月はその後何枚かシャッターを切り、アラームが鳴る少し前にカメラを片付けた。
 そして早速フィルムを取り出し、忍に手渡した。
「悪いけど、現像を頼んで良いか? ここ、現像道具も現像してくれる所も無いから」
「いいよ。ついでに川島さんに渡しとく」
「あ、いや  それは」
 忍の言葉に、志月があからさまに動揺した。
「とりあえず見てもらえば早いでしょう? どの道判断材料が無いんだし」
「まあ…そう……だな…」
「そういう訳で、渡しておくよ。  それじゃ今日は時間も遅くなってきたし、そろそろ帰るね」
 忍はもう病室には戻らず帰るつもりだった。
 その為に、自分の荷物は先刻病室を出る時に持ち出して、受付に預けてあった。
 受付に戻り、預り証を手渡した。
「こちらでお間違いないですか?」
 受付嬢が黒い学生鞄を手渡してくれる。
「ハイ。  あ、次のバスは何時ですか?」
「次のバスは  
 受付嬢がバスの時間の検索を始めようとした時、志月がそれを遮る様に言った。
「バスはいいから、タクシーを呼んでやって」
「はい、タクシーですね」
「え!? あ、駄目だって!」
「良いから。  この時間帯本数少ない上に、人通りが無いんだ。危ないだろう?」
 二人の遣り取りは他所に受付嬢は、志月の言葉の方を優先してタクシー会社に電話を掛けている。
「でも普通にバスが出てるんだし  
「何かあったらどうするんだ」
「いや、何もないって」
 言い合っているうちに受話器を置く音がして、受付嬢が「あの  」と声を発した。
「五分ほどでこちらへ到着するそうです」
 彼女のこの一言で、この会話は潮となった。
 呼ばれてしまったものは、もうどうしようもない。
「ありがとう。  すぐ来そうだから、外で待っていようか」
 志月はごく自然に忍の手を引いた。
「あ…うん…」
 動揺してはいけない。
 そんな呪文を忍は唱える。
 掴まれた掌の温度に、心を揺らしてはいけない。
 何度も自分に言い聞かせながら玄関に向かう。
(油断すると、さっきみたいになってしまう…から  
 優しい棘が心に刺さらない様に、忍は心を鎧った。
 結局、五分と待たずにタクシーは到着し、忍はそれに乗せられた。
 運転手が「どちらまで?」と訊く前に  忍が「藤ノ谷駅まで」と言う前に、志月が運転手に行き先を告げる。
「Kターミナル駅まで。  請求は後でこちらへ回して下さい」
「はいよー」
 またもや、忍が異論を挟む隙も無く依頼は成立してしまった。
(Kターミナルって、都内じゃないか!)
 本気で焦っていると、志月はそんな事を意に介さず笑って忍を見送った。
「じゃあ、またな」
 その言葉を合図に自動ドアが閉じられ、タクシーは目的地に向かって発進した。
 蒼い色硝子の様な夕空の中、忍を乗せた車は小高い丘を滑り降りた。

前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++


PAGE TOP▲