scene.4

 午後一時頃学校を出て、志月の入院している藤ノ谷の病院に到着したのが、午後三時半であった。
「調子、どう?」
 病室の中で、志月は寝台の上で上体を起こしてテレビを見ていた。
「いらっしゃい」
 テレビのスイッチを切り、彼は寝台を下りた。
「いいよ、寛いでいて」
 来訪者に茶を淹れようと冷蔵庫に向かうのを、忍は制止した。
「良いんだよ、暇なんだから」
 忍の制止には構わず、志月は冷蔵庫の中から紅茶の瓶を取り、横の棚に入っている茶請けの菓子類の入った入れ物を出した。
「今日から新学期だろう?」
 忍に背中を向けて、グラスに紅茶を注ぎながら、志月が声を掛けた。
「うん、今日は始業式で早く終ったから、来たんだけど  
「明日からはそうもいかないな」
 志月は苦笑する。
「そうだね…。春休み程は来れないかな」
 忍は大きく溜息を吐いた。
「だろうな」
 普段はきっとこんな事をする側ではないはずの彼が、紅茶と皿に盛られたクッキーをトレイに載せて、忍の座るソファへ運んでくる。
「そういえば昼食はどうした?」
 茶を淹れてからどうなのか、と言う質問が飛び出した。
「食べたよ。  学食で食べてきた」
「そうか、なら良い」
 志月もソファに腰掛け、自分の分も用意していたらしい紅茶のグラスに口をつけた。
「特進は、クラス替えは…無いんだったか」
 彼は新学期らしい話題を探しているらしい。
「無いと言えば無いけど、ある事はあるよ。席次が三十番から外れたら、普通クラスの生徒と入れ替えだもの」
「それはまた露骨だなぁ」
 志月自身はこの時期公立の高校へ進んでいたので、そういう競争には縁が無かった。
「あ、そう言えば  編入生がいた。特進に編入してきて、いきなり四番」
 ふと、不動の事を思い出した。
「へえ? 随分な秀才なんだな」
「見た目には見えなかったけどね。  ちょっと変わった奴だったけど」
「忍が、例の二人以外の話をするのって珍しくないか?」
 例の二人とは、千里と北尾の事だ。
「そうかな」
「ああ」
「まぁ、あんまり友達いないしね」
 悪戯っぽく笑って、出された菓子類に手を伸ばす。
 正直、あれだけ急かされると、せっかくの昼食も食べたのだか食べてないのだか分からなっていた。
「そんな事言ってる割に楽しそうだぞ?」
「え? そう?」
 そうでもないけど、などと言って忍は曖昧に答えた。
「あ、そうだ。忍が来たら頼もうと思ってたんだが、教科書見せてくれないか?」
 急に思い出した風に志月が顔を上げた。
「教科書? 何でもいいの?」
 教科書なら、今日受け取ったばかりの二年生用のものが鞄にそのまま入っている。
「何でもいい」
「じゃあ、これ  
 学校指定の黒い鞄の中から数冊、主要教科の教科書を取り出した。
 それらの本を受け取ると、志月は一冊ずつ目を通していった。
 その間暫く沈黙が続き、やがて彼は教科書をテーブルに閉じて置いた。
 そして小さく溜息を吐く。
「どうかしたの?」
「ん? いや、どの辺りまで憶えてるものかと思って…。でも、どうやらこういう事は忘れてないみたいだ。  ありがとう、返すよ」
 教科書が忍に手渡される。
「何かあった?」
「昨日、宏幸が仕事の事でここに来てたんだ。  〆切延ばしてもらってるとか言う仕事の件で」
「そう言えば、この間もそんな話してたね」
「正直、参ってる  どうしたら良いのか…」
 志月が途方に暮れた顔をしていた。
 それでやっと忍は分かった。
 何故教科書など見たいと言ったのか。
 志月は自分の中から何が失われて、何が残っているのかを確認しているのだ。
 そして、学業に関しては損なわれてない事が分かった、と言う処らしい。
「嫌なの? 写真撮るの」
 心中複雑と言った顔をしている志月に、率直な質問をぶつけてみる。
「そういう訳じゃない。そうじゃなくて…不安なんだ。上手く説明出来ないな…。何ていうか、今の自分と十年後の自分は違うように思えて  
 力の無い笑みが洩れた。
 自分の手の中にある、憶えの無い持ち物に戸惑っている。
「軽々しく『大丈夫』なんて言う事は出来ないけど、何とかなるかもしれないよ?」
 控え目に忍が言った。
「何でそう思う?」
「だって  同じ人…だから」
 十七歳でも二十七歳でも、『東条志月』である事に変わりは無いと、忍は言った。
「カメラの事ってどのくらい憶えてるの?」
「それが…不思議なもので、使い方や、ちょっとした表現法とか、技法とかは憶えてるんだ。  ただ、学校生活そのものとか、日常生活そのものとか、そういうものだけが飛んでるみたいなんだよな」
 『知識』は残っているが『想い出』は残っていないと言う事の様だ。
「まあ、これがもうちょっと軽めのスチル写真とかならやってみたいんだよ、本音は。  それがよりにもよって『廃墟』だから、躊躇ってる」
 志月はその後にこう続けた。  ちょっと本の上で飛び方を勉強しただけで、戦闘機に乗る様な気分だ、と。
 それは怖気付いているのとは違っていた。
 冷静な判断だった。
 自分には経験値が無い、と判断したのだ。
 忍には分からなかったが、『廃墟』とは、それ程に写真家にとってはグレードの高い雑誌らしい。
「もう悩んでても仕方無いか。やるだけやってみないとな」
 前向きな言葉とは裏腹に、志月は目を伏せて笑う。
 掛ける言葉が見つからなかった。
「手始めと言う訳ではないけど  今からちょっと散歩がてら撮りに行ってみようか」
 しばらくの沈黙の後、志月は意を決した様に顔を上げた。
「今から?!」
 忍が驚いていると、志月は立ち上がり、クローゼットから外へ出れる衣服を出してきて、着替え始めた。
「思い切りの付いた時に始めないと、萎えるだろう?」
 しれっと言い放った彼は、もうほとんど着替え終わっていた。
「そりゃそうだけど…」
(B型…)
 心の中でこっそり呟く。
「ん? 何だ?」
「何でも」
「さ、行こうか」
 忍が、その行動のあまりの早さに唖然としているうちに、志月はもうその肩にカメラケースを掛けていた。

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