scene.3

 過去への旅を終えた忍は、弓香の用意してくれた昼食を慌しく胃に押し込み、大急ぎで駅に向かった。
 待ち合わせは十二時。
 五分前、忍が駅に着くと、宏幸はもう切符売り場の前に立っていた。
「よーしよし! ちゃんと来たな!」
 宏幸は意地悪い笑みを浮かべた。
「来ますよ! …約束  したし」
 忍は宏幸から目を逸らして、少し不貞腐れた様に言った。
 宏幸は、時々ひどく意地が悪くなる。
 今も、バツの悪い顔をした忍を、実に面白そうに眺めている。
(基本的にとても良い人なんだけど、時々すごい意地悪だよな…)
 忍は小さく溜息を吐いた。
「そうだな、じゃあ行こうか。結構遠いぞ、あいつの入ってる病院は」
 宏幸が忍の背中をバシッと叩いた。
「痛っ!」
 不意打ちを喰らって、忍は身体が前のめりになる。
「悪い悪い  はいよ! これ忍君の分の切符!」
 加減無しに叩かれた背中の痛みを堪えつつ、切符を受け取った。
「あ、ありがとうございます。  え!?」
 手渡された切符の金額を見て、忍は絶句した。
(これ、一体何県まで移動するつもりなんだ!?)  4桁台も中盤、結構な金額である。
「片道一時間以上かかるんだ  しかも、快速を使って」
 宏幸が大げさに肩を竦めた。
「ええ!?」
 明らかに、都内ではなさそうだ。
 一体何処まで行くのだろう。
 忍は少なからずの不安を覚えつつ、宏幸の後ろを付いて歩いた。
 改札から一番遠いホームへ入り、目当ての新快速が入ってくるのを待った。
 程なく電車はホームに滑り込んできた。
 前もって時間をあわせての待ち合わだったのだろう。
 乗り込んだ電車は、二人掛けの座席が向かい合わせに並んだボックスタイプで、否応無く旅行気分にさせられた。
 長旅を思わせる電車は、志月に手を引かれ、初めて桜川の屋敷に連れてこられた日を髣髴させた。
 その日もやはり今日と同じ  気の遠くなるほど良い天気だった。
(本当に、どこまで行くんだろう…)
 方角で言うなら、東方面の電車だが、てんで見当が付かない。
 やはり少し不安だ。
 宏幸を信用できないとか、そういう意味ではない。
 長い距離を移動する事が、ただ漠然と不安なのだ。
 忍の記憶の中で、長い距離の移動は馴染んできた何かと訣別する時である事が多かった。
 だから、この日も同じではないかと、無意識に感じてしまうのだ。
 向かいの座席でシステム手帳を開いている宏幸の顔を、忍はちらりと覗き見た。
 当たり前の事だが、彼は実に平常通りだ。
「うん? どうかしたかい?」
 視線に気付いた宏幸が、忍の顔を覗き込んだ。
 彼のその動作に、身体が反射的に後ろへ退いた。
 顔を覗き込まれたりするのは、相変わらず苦手だった。
「いえ、あ  その…どこまで行くのかな、と思って…」
 察したのか、宏幸も身体を後ろに引いた。
「ごめん、驚かしたかな」
 過剰な反応を示す忍に苦笑いしている。
 自分が過敏過ぎるのは自覚しているだけに、謝られると余計気恥ずかしい。
「そうだね、ここから七駅先の藤ノ谷と言う所まで行くよ」
 彼は何事も無かったように、話を先へ進めた。
「藤ノ谷?」
 それは聞いた事の無い地名だった。
「そう。そして藤ノ谷駅からバスで三十分くらいかな」
 宏幸の台詞に、半端ではない距離を再確認した。
「まぁ、道のりは長いし  寝てていいよ。着いたら起こしてやるから」
 宏幸はそう言って窓の外に視線を向けた。
「ありがとうございます」
 無理矢理話し続けるより、また、沈黙に気まずくなるより、許されるならいっそ眠ってしまった方が気は楽だ。
 宏幸の言葉を渡りに船とでも言うように、忍は素直に目を閉じた。
 しかし、残念な事に、気が昂ぶっているのか、寝ようにもどうにも眠くはならなかった。
 固く目を瞑り、深呼吸を繰り返す。
 目の中は外の明るさの為白い光が反射している。
 目蓋の内側が、朱色に染まる。
 毛細血管を流れる血液の色が、目の中で弾けている。
(赤い…光…)
 寝苦しさに何度も身体の向きを変えながら、いつしか忍は浅い眠りの中に滑り落ちていった。
 目蓋を焼く光が視界を赤く染め、退院以来見ていなかった赤い夢に捉われていった。
 そしてそれは、何に触発されたのか、病院で見ていた時より遥かに鮮明な夢だった。

 夢の中で、忍はいつも小さな子供だった。
 夜の暗闇の中にいた。
 薄暗い歓楽街の夜だ。
 セロファンを貼ったランプの様な、薄暗く陰惨な雰囲気の灯りが色とりどりに浮かんでいる。
 暗がりの中、忍の足は水の中に浸かっている。
 一体何処にいるのか、足許の水にそっと手を触れると、それには妙にぬめりけがあった。
 その液体から、錆が浮いた様な生臭い様な、異様な臭いが立ち込めていた。
 足先から染み込んでくるその水に、忍の本能が警鐘を鳴らす。

  早く逃げなければいけない。

  ここにいては、いけない。

 そんな思いで駆け出そうとした足を、足許の水に取られて激しく横転した。
 得体の知れない水が、身体に染みてくる。
 激しい嫌悪感に苛まれ、身体を動かす事が出来ない。
 得体の知れない水。
 いや、その正体を忍は知っているのだ。
 不快な生温かさで染み込んでくる、それは血液だ。
 誰のものなのか、おびただしい量で流れ出たその液体は、未だ人肌に近い温度を保っていた。
 流れ出してから、それほど時間は経っていないらしい。
 高い空の上から赤いセロファンを貼り付けた満月が忍を見下ろしている。
 慌てて跳ね起き、忍は夜の街を駆け始めた。

  誰か、助けて。

  誰か。

 いつもなら夢はここで終わるのだ。
 しかし、今日はまだ終わらないらしい。
 心臓が破けるのではないかと思う程走り続け、色とりどりのエチレン灯の明かりの下をいくつもくぐり抜ける。
 誰かの手が背後から伸びてきて、忍の身体を今にも捉えるのではないか、そんな恐怖に急き立てられていた。

 疾走の果てに、やがてひとつの白い明かりが浮かび上がってきた。
 "出口"だ。
 直感がそう言った。

  あそこまで辿り着ければ、助かる。

 何故だか、そう思った。
 徐々に明かりが大きくなり、そこへ飛び込もうとした。
 その瞬間、光の中から誰かの腕が伸び、忍の腕を強い力でその中へ導いてくれた  気がした。

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