契約成立

scene.1

 その日はやたら早くから目が覚めていた。
 まだ暗いうちから何度も目が覚めて、時計を確かめては布団に戻った。
 心臓が早鐘の様になり、訳の分からない焦燥に何度も取り憑かれた。
 何度目に目覚めた時か、やっと白んできた空をカーテン越しに感じて、更に不安感は増していく。
 原因は分かっていた。

  病院に行くのが怖い。

  志月に会うのが、怖い。

 予防接種の列から逃げ出したい子供の気持ちで、忍は布団を何度も被り直した。

 最初は不安など感じていなかった。
 過去の亡霊から開放されたのかと、安堵さえした。
 それなのに、今はどうだろう。
 逆にそれが不安で仕方が無い。

 誰の影でもない自分  その価値に自信が無い。
 結局自らの手で燃やした影に、自分が庇護されていたのではないだろうか。
 そんな風にさえ思ってしまう。


 とうとう寝直しすら出来なくなり、起き上がると時間は朝の六時三十分だった。
 与えられた自室を出ると、弓香も丁度起きてきた処だった。
 この奥方は、割合無造作に寝間着姿で現れる。
 その上からエプロンを着け、朝食と弁当の準備を始めるのだ。
「おはようございます」
 忍は早々とキッチンに入る弓香に小さく頭を下げた。
 彼女のこの姿にも、当初は面喰らったものだが、一ヶ月も毎朝見ているといい加減見慣れてしまった。
「おはよー。早いね、今日は」
 弓香が微笑んだ。
 自室から出てきた時間は、いつもとそう変わらないのだが  
「寝付けなかった?」
 どうやら、彼女は忍が何度も寝たり起きたりしていたのを感じていた様だ。
「はい、ちょっと…」
「まだ、時間あるし  ちょっと朝のコーヒータイムにしましょうか」
 少し前に仕掛けてあったらしいコーヒーメーカーから、彼女はカップにコーヒーを移した。
「はい、どうぞ」
 忍の前に淹れたてのコーヒーが置かれる。
「ありがとうございます」
 弓香は忍の向かいに腰を下ろした。
 そして、にこにこしながら忍の顔を見ている。
「ふふふ、それにしても人の目って言うか…主観って不思議よねぇ」
 しばらくそうしていたかと思うと、突然弓香が脈絡の無い事を言い出した。
 忍が返事に詰まって黙っていると、更に彼女は言葉を繋いだ。
「あ、ごめんね  突拍子も無くて。あのね、志月くんも宏幸くんも、忍くんが篠舞に似てると思ってるのよね」
 今一番触れたくない話題にさらっと触れてきた弓香の台詞に、忍は一瞬身が竦む。
「私、あまりそう思わないのよ」
「は?」
「ホラ、ここ一ヶ月くらい一緒に生活してるじゃない?」
「はい」
「私から見ると、忍くんってそんなに篠舞に似てないのよ。だから不思議だなぁ…って思って」
 弓香が苦笑いを浮かべながら、肩を竦めた。
「そう…なんですか?」
 意外な言葉に、忍は首を傾げた。
 今まで"似てる"と言われ続けてきたので、それを真逆の事で言われると却って戸惑いを感じてしまった。
「宏幸くんを送り出したら、アルバム見てみる?」
 弓香がにっこり笑う。
「え…」
 見てみたい気持ちはあるが、やはり躊躇ってしまう。
「そうしよ! 私はあの子とは小…中一緒だから、たくさんあるわよ~」
 忍の躊躇をよそに、彼女の方はすっかりその気だ。
「う…はい…」
 弓香が断らせないモードをオンにしてしまった。
 そう言うと、家事のプロフェッショナルは、いつもの数倍のスピードで夫の身支度を整え、自宅から放り出した。

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