scene.5
その後千里は、洋楽ロックやジャズから果てはアニソンやアイドルソングまで数時間に渡り弾き続けた。
その間集中力は途切れることなく、まるで彼自身が楽器の一部になってしまったかの様に弾き続けた。
次第に辺りは暗くなり、歓楽街の住人達も姿を表し始めていた。
「にーちゃん、今度演歌演ってくれや!」
既にそこそこ酒精が回っているらしい中年の男が声を上げた。
千里は弾きかけの曲にキリをつけて手を止めた。
「演歌ー? どんなのがいいのー? 有名なのしかわかんないけど」
千里が酔っ払いの声に気付いた事に、忍は驚いた。
雑音は耳に入らないのに、自分に向けられる声はきちんと聞き取れる事に感心した。
「おっ? そーだなぁ…じゃぁサユリちゃんちゃんはどーだぁ?」
中年男も言葉が返ってきた事に驚いているらしい。
「津軽海峡冬景色の人?」
「そうそう、わけーのによく知ってんなぁ!」
中年男が感心した様に目を大きくして千里を見ている。
「おっちゃんが自分で振ったんじゃん! 懐メロでちょこっと聴いたくらいだから、ウロ覚えだけど勘弁してねー」
年末になると、ものまね歌合戦の様なバラエティ番組でよく流れるその曲を、千里は弾き始めた。
あまり演歌に聴こえない。
どちらかと言うとブルースの様な感じだ。
人間の根幹に流れるリズムというのは、もしかしたら人種を問わず同じなのかもしれない、などと、ヴァイオリンソロによる演歌に耳を傾けつつ、忍はぼんやり考えた。
一曲弾き終わる頃には、すっかり黒山の人だかりが出来ていた。
それを皮切りに次々とリクエストが入り、気付くとヴァイオリンケースの中には結構な金額の小銭が溜まっている。
足早に人が通り過ぎてしまう歩道橋の上よりも、時間的に開店直前の店が多い歓楽街は、結果的に足を止めて貰い易かった様だ。
そう言って千里は笑った。
「あらら、おひねりもらっちゃった」
そう言う目的で弾いていなかった為、千里は少し戸惑っている。
「学校、バイト禁止だよ」
もちろん千里を揶揄って言っただけだが、忍が冗談を言うのも珍しく、千里は更に驚いた顔をしていた。
「はは、ほんとだねー。ヤバイな、停学くらっちゃう」
いや、まずこんな歓楽街のど真ん中にいること自体がまずいのでは、と思われる。
「さーて、聴衆のみなさんもご出勤しちゃったし、オレたちもそろそろ行こっか?」
千里が楽器を仕舞い始めた。
そのその動作はさすがに授業の合間の十分間で出したり仕舞ったりしているだけあって、手慣れたものだ。
「結構もうかっちゃったよねー。せっかくだから、これで晩ご飯たべちゃおっか!」
ケースの中に放り込まれた小銭を纏めてみると、成る程それなりの金額だ。
千里は以前、自分のヴァイオリンは技術先行で、そこに感性や情緒の様なものがあるのかどうかを随分気にしていたが、こうして演奏しているのを聴いていると、どうも反対なのではないかと忍は思う。
千里の感性を追う様に技術が上がっていくのだ。
表したい何かがあるから、それを表す為に技巧が身に付いていく。
去年は滞ってしまっていたエネルギーの放出する方向を、漠然ながらも彼は見つけた様だった。
「しーのーぶ! 行こ!!」
座り込んでいるままの忍の腕を、千里が引っ張る。
「あ、うん。行こう ああちょっと待って、弓香さんに電話だけでも入れておかないと、もう八時過ぎてる」
「うわぁ…相変わらず箱に入ってるぅ…」
健全な男子高校生が夜八時過ぎたくらいでいちいち家に電話を入れる処が、全く過保護な と千里は呆れ笑いをした。
「いや、ほら、よその家に置いてもらってる身だし」
「もー、そんなのさっきせっかく携帯買ったげたんだから、歩きながら電話しなよ!」
「あ、そうか!」
「忘れてたんだ、ひっどーい!」
「ご…ごめんって」
「冗談だよ、早くかけな? 心配するんでしょ?」
「あ、うん」
川島宅に電話を入れると宏幸が出た。
珍しく早く仕事が終わった様だ。
「もしもし、すみません 今から水野と夕食を食べに行く事になって…連絡が遅れてすみません。 はい、…はい…あ、あと、今日携帯買った というか水野に買ってもらったので、番号言いますね。何かあったらこの番号に…えーと番号は 」
宏幸も弓香も特に怒っている様子も無く、むしろ「ゆっくり楽しんでおいで」などと暖かく送り出してくれた。
志月は、忍をあまり外へ出したがらなかった。
今までのそういう生活からは想像出来ないくらい、緩い。
「大丈夫だった?」
通話を切ると、千里が少し気遣わし気に忍の顔を見上げた。
「うん、大丈夫。なんか、楽しんでおいでってさ」
「そう、よかったー」
まるでカップルの会話の様で、可笑しい。
千里の本日の売上を片手に、二人は賑やかしい繁華街の方へ戻っていった。
(俺は、どうしたいのかな…)
明日は、志月を見舞う為、病院へ行くのだ。
(どうしたら一番良いのだろう…?)
昨日、彼の兄と名乗る人物と会ってから、ずっと考えている。
いや、それよりも前から、考え続けてきた。
(何を話せば良いのか どんな顔をすれば良いのか…分からない…)
考えれば考えるほど、迷走してゆく思考。
迷路に放り込まれたネズミの様に、ただ戸惑っている自分。
忍は、華々しいイルミネーションの洪水に溺れそうな錯覚に見舞われる。
ふと、隣を見ると、暢気な顔で鼻歌を歌っている千里がいた。
その曇りの無い顔を見た途端、忍は何故かホッとした。
今日は、突然強引に呼び出され面喰ったのも確かだが、それでも、この日に千里と会えて良かったと、忍は思っていた。
彼が明日の事を知っていて誘ってくれた訳ではない事は分かってはいる。
それでも、今日、彼に会った事で少しだけ忍の気持ちが前を向いた。
持て余してた気持ちを、少しだけ後ろに送る事が出来たのだ。
(とにかく、会う前からあれこれ考えるのは止めよう…。会って、話して、それからだ)
今決まっている事は一つだけなのだ。
明日は、志月に会う為に病院へ行く。
ただ、それだけだ。