scene.3

 結局、一番近いという理由で、駅を挟んで反対側にある本格インドカレーの店とやらに入った。
 ドアを開くと、途端にマサラの匂いが鼻を刺す。
 内装もとても独特で、異国の神様の絵が所狭しと飾られ、壁には紙ではなく黒く細い竹が一面に貼られている。
 読めない文字の羅列するポスター。
 眩暈のする様な香辛料の匂い。
 鮮やかな色彩を持ちながらどこか薄暗い空間。
「大丈夫? ここでいい?」
 戸口で足を留めていると、千里が今更ながら気遣わしげに忍に声を掛けた。
「あ、うん。大丈夫  こういう店って入った事無いものだから、もの珍しくて」
「入ったことないって…ものめずらしいって…こういうアジア系のお店って、結構前から流行ってたんじゃ…」
「ごめん、疎くて  何て言うか、あんまり外で食事しないから」
「ああ、そっか。そう言えばついこないだまで君、箱に入ってたもんね」
「いや、箱には入ってないけど…」
「まあいいや、入ろ!」
 ジャワ更紗の鮮やかな暖簾を潜り、千里は狭い通路を奥へ進んでゆく。
 忍はとてつもなく不思議な気持ちになった。
(気付いたらこんな風に自然に会ったりしているけど  本当なら有り得ない事だよな)
 最初は反発して、実は気が合って、気付いたら一緒にいる。
 その単純な図式が、不思議で仕方がない。
「ホラホラ! ぼーっとしてないでオーダー!」
 気付いたら、サリーを身に纏った従業員がオーダーを取りに来ている。
 インドカレーなど何がどういう代物かてんで分からないので、忍はメニューと別紙で渡された「おすすめセット」のような物をオーダーした。
「何だか忍、いつもにも増してぼんやりしてない? 何かあった?」
 いつもにも増してとは酷い言い草だが、千里は相変わらず鋭かった。
「何かあった…って訳じゃないんだけど、明日…あれ以来初めて会いに行くんだ」
 あれ、とは年末の火事の事で、会いに行く相手はもちろん志月だった。
「え? ええーっ!? もう三月だよ!! 最初一ヶ月は君も入院中だから仕方ないとしても  あれから一回もお見舞いに行ってなかったんだ!?」
 千里は椅子から立ち上がりそうな勢いだ。
「ま…あ、そう…」
「そうなんだ…」
 千里が唖然としている。
「どうせ志月は俺の事憶えていないし、向こうの家族と顔を合わせてもややこしいかと思って  そう言うのもあって」
「いや、そりゃそうだろうけど…でも、それが何で明日急に?」
「志月のお兄さんて人が来て、頼まれて  かな」
 忍は自分で言いながら違和感を感じる。
 頼まれたからではない。
 しかし、積極的な気持ちでもない。
 頼まれなければ、もしかしたらこのまま会わなかったかもしれない。
 けれども、会いたい気持ちが無かった訳ではない
「へ…え? 何か不思議な話だね。普通は会って欲しくないんじゃないの? ましてや憶えていないならなおさらだよね」
「俺もそう思ったんだけど…新学期から学校とか住む所とかどうしようか考えていたんだけど、それもその人が卒業まで看る様な事言い出して  
「すごいじゃん! じゃあこのまま通学できるんだ!!」
「でも  正直な処あんまり乗り気じゃないよ。意味無いだろ? ただ施されるみたいなのは、嫌だから」
「まあ、気持ち悪いよね  まあでも、嗅ぎつけてくる輩ってどこでもいるし、今この状況で放り出したら世間体も悪いんじゃない?」
 思った事を隠さず言うのが千里の長所なのだが、ここまで本人を前にして言える人間も珍しいと、忍は苦笑した。
 千里の言う事もまた事実で、全てが崇高な思想から行われる訳ではないだろう。
「まあ、そうだよな。表に出る内容を半分くらいに絞っておけば、却って美談に聞こえるだろうし…」
 かく言う忍自身もまた、他人事の様に言葉を付け足した。
 最近の忍は、その身の上に起こる事にどうしても現実感を持てないでいた。
 自らの存在がどこか希薄で、白昼夢の中を歩いている様であった。

  いつからなのだろう。

  いつからこんな風に現実と夢は境を失った?

 忍が自分の内側の闇い処に沈みかけた時、丁度料理が運ばれてきて、その思考は断ち切られた。
「おまたせしましたー」
 随分上手にサリーを避けながら料理を持つな、と忍は感心する。
 千里のオーダーはサグワラというカレーで、緑色をしている。
 忍の方は比較的良く知っているカレーの色に近かった。
「すごい色だな、それ」
 レッドカレーくらいまではまだ一般的なのだろうが、緑となると実際にあまり見かけない。
「ホウレンソウのカレーだよ。そっちのはコルマだね」
 どうやら千里は結構カレーに凝っている様だ。
「コルマ?」
「ココナツのカレー」
「ふうん」
 辛さは分からなかったので、とりあえず標準にしてもらった。
 それでも忍にとっては少し辛目だ。
 千里の方が辛口をオーダーしていたはずなのだが、辛党の彼としてはそれほど辛いものでもないらしく、忍より余程食べ進むのが速かった。
「…で、まさか俺に携帯持たせる為に呼び出したんじゃないだろ?」
 千里に話しかけつつ、忍は通りすがりの店員を捕まえて、さりげなく「ラッシー」と書かれたインドのヨーグルトドリンクをオーダーした。
 水では辛さが誤魔化せなかったらしい。
「ん…まあね。  そっちはオマケ」
 何かとても大事な事を切り出そうとする時、千里は無表情になる。
 普段何に対しても少しおどける様な癖があるのに、その瞬間素に戻る。
「じゃあ、本題は?」
  そう大したことでもないんだけど、実は路上やってみようかなと思ってさ」
「路上??」
「路上演奏。ストリートってヤツ」
「あの、よく道端でジャカジャカやってるやつ?」
「それそれ」
「何でまた」
「ただの思いつきなんだけどね、何でもやってみようと思って」
「やっぱりそれはヴァイオリンで?」
「当たり前じゃん。それ以外まともに弾けないもん」
「あ…そう」
 そう言ったきり千里は、食事に専念し始め無言になった。
 相手が喋らなければ自分も喋らない忍もまた無言になった。
 それぞれが、それぞれの未来を捜している。
 先が見えないのは、忍だけじゃない。
 千里だって同じ。
 手探りでも、先が見えなくても、とにかく一歩ずつ足を前に出すしかないのだ。

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