scene.5

 佳月の立ち去った後、忍は暫しその場に立ち尽くしていた。
 あまりにも条件の良い申し出は、俄かに信じ難い。
 しかし、その中には素直に喜べる事も混じっていた。
(名前  返さなくていいんだ…)
 志月からもらった名前をそのまま名乗り続けて良い事が、忍にはとても嬉しかった。
 この先、どんな風になったとしても、それだけは自分に残るのだ。
 生活の保障よりも、学業への援助よりも、何よりも嬉しかった。
「忍君、君さえ良ければ俺の次の休み  一応来週の火曜なんだが、一緒に見舞いにでも行ってみるか?」
 玄関先で呆然と立ち尽くしたままの忍の肩を宏幸が軽く叩いた。
「あ…っ、え  は、い」
 勢いで承諾してしまった。
(しまった、つい…)
 正直な処、自分自身の気持ちさえ整理出来ていない。
 先刻の佳月の申し出も有難かったのだけれど、それに甘えてしまう事にはやはり違和感を感じずにいられない。
「実は、少しずつあいつにも予備知識入れてあるから  会いたがっては、いるんだ」
 鼻の頭の掻きつつ宏幸が言った。
「え…!? どんな風に、ですか?  
 忍は弾かれた様に顔を上げた。
「いや、背尾の話をわざわざする事も無いから、ただ単にお前と一緒に住んでた子を預かってるぞって  言っただけなんだけどな」
 一瞬身構えたが、その力がするすると抜けた。
「それだけ…ですか?」
 あからさまに拍子抜けした表情で忍は言った。
「ん、まぁな。正直俺もどう話していいのか分からないし  俺自身も君らの事をどれ程知ってる訳でも無いし…。だから結局志月に話したのは年齢が幾つだとか、どこの学校に通ってるとか、なかなか料理が上手くてウチの奥さんと妙に息が合うとか、そんな話ばかりだな」
「はぁ…」
「でも、あいつはそれを興味深げに聞いていて  憶えてない分、他人事の様な興味の持ち方ではあるけど、会いたがっていたよ」
「そう、なんですか」
 宏幸は更に言葉を繋ぎたい様子で、数秒考え込んでいた。
 そして、少し言い躊躇った口調で付け足した。
「一応、君の方にも予備知識を入れておくと…だな、来週君と会う予定の志月は君の知っている人物とは違う  かも知れない…」
「やっぱりそれは記憶が欠けた分、ですか?」
 東条志月の頭の中から抜け落ちた十年分の記憶。
 忍の事ももちろんその抜け落ちた中に入っている。
 人間、十歳も若返れば、確かに別人かもしれない。
「記憶が欠けた分と言やぁそうなんだろうな。
 だけど、俺から見れば元に戻ったって言うか…背尾と出会って、それを亡くして
  その後の、つまり君のよく知ってる志月の方が、俺から見れば不自然だったんだよな」
 宏幸と志月の付き合いは長い。
 二人が通った都立高校の入学式の日  たまたま同じクラス、そして出席番号の関係で隣の席になり、それ以来ずっと友人で在り続けた。
 志月の記憶から高校二年生以降の記憶が欠落したと言うのならば、今の彼は丁度川島宏幸と出会った頃の東条志月だ。
「……」
「あ、変に神妙にならないでくれよ? つまり言いたいのは、多分君の中のイメージが崩れるぞって事でだな…」
 沈黙する忍に、慌てて宏幸がフォローを入れた。
「イメージ…ですか?」
「多分忍君の中では、ヤツは無口で落ち着きのある大人なんだよな?」
「そう、ですね」
「十年分若返ってるとか、今頭の中が君と同い年とか、そう言う事を抜きにしても元々志月はそういう性格じゃないんだ」
「はあ…」
「どちらかと言うと陽気な性格だし、佳月さん見てても分かるだろうけど、坊ちゃん育ちのお人好しだし、その分と言うか何と言うか…。どこをとっても完璧なはずなのに、ヤツはどこか間が抜けてると言うか、のほほんとしてるんだよな」
 宏幸が説明に困っていた理由が分かった。
 確かにそれは、想像し難い。
「…想像……つきません……」
 少なからぬ混乱を来たしつつ、忍は宏幸に応えた。
「…だよなぁ…」
 しかし、先刻訪れた志月の兄は確かに何処か人が好い。
 鋭い眼光を包むように穏やかな空気を身に纏っている姿はなかなかの迫力なのだが、あれほどの好条件を忍に持ってくるとは  まして自分の養子にしても良いとは。
 忍が信じがたい気持ちで首を捻っていると、宏幸が説明を補足した。
「その"坊ちゃん育ちのお人好し"の部分を、ノブレス・オブリージュって言うらしいぞ」
 宏幸が言うには、ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)とはヨーロッパの古くからある概念で『身分の高い者には一般人以上の義務が伴い、特権をもつ者には同様の責任が伴う』というものであるらしい。
「まあ、あの兄弟にはそういう教育が深々の根挿しているから、自分の行動に対する責任を放棄するという思考が無いんだと思うよ。その辺りは打算とか、悪意とか、そんなものは無いと信じて良いんじゃないかな。
 後はそれを君が受けるか受けないか自由に決めていいんだと思う」
 そう言って、宏幸は忍の頭をポンポンと頭を撫でた。
「はーい、そこの男二人ー! 特に準備を手伝っていない宏幸くーん! お片付け手伝ってー!!」
 弓香がキッチンから二人を呼ぶ。
 慌てて二人は玄関を離れた。
 お片付けを分担するのは川島家のルールらしい。

  来週の火曜日、とうとう志月と会う。

 四人分のパスタ皿を洗いながら、ぼんやり忍は考えた。

  初めて出会う彼は、どんな人間なのだろう。

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