scene.4

 川島家で生活を始めて約一ヶ月  学校は完全に春休みに入っていた。
 忍は弓香と二人で様々な新作料理を編み出してみたり、一緒に買い物に行ったり、時折陶芸教室などカルチャースクールに通ったりして毎日を過ごしていた。
 それはやたら穏やかな時間で、そのままそこでふわふわしていたい気持ちになる。
 けれども、現実はどんどん目の前に差し迫っていて  
(本当にそろそろ仕事決めないと  
 あの火事以来、志月とは会っていない。
 実家が経営しているらしい病院に搬送された事もあって、なかなか顔を出せる環境ではない事もあるのだが、何よりも自分の事をまるで憶えていない相手にどの様な顔で会えば良いのかも分からないのだ。
 一度宏幸が『家族と鉢合わせたら誤魔化してやるから一緒に行くか?』と声を掛けてくれた事もあったのだが、それもつい断ってしまった。
 時が経てば経つ程気が重くなり、踏み出す足も重くなった。
 何も憶えていない人に、どう接すれば良いのか分からないのだ。

  相手の心の中に、自分の存在が無い。

 その事実に酷く戸惑う。
 そして怖くなる。
 相手にとって、自分という存在が無い事に。 
(お前なんか知らない、…って、拒絶されたら?)
 今の志月は、背尾篠舞とさえ出会っていない。
 そんな彼に、自分がどれ程必要だろう。
 忍は自分の存在そのものを否定される事に怯えていた。
 拒否ならまだ良い。
 否定されたら  

 けれども、そういつまでも逃げてもいられないのだろう。
 現実問題として、新学期から学校をどうするんだとか  
 住む所をどうするんだとか  
 生活をどうするんだとか  
 課題は山積している。
 しかし途方に暮れる一方で、積極的に「生きよう」としている自分が不思議であった。
 どうにか生き延びていく方法を思案している自分。
 悪足掻きもそう悪くないと思う自分。
 気づいてみると随分前向きになったものだと思った。
 それでも。

  「一人で生きていく」

 一体、そんな覚悟が自分に出来るのだろうか。

「忍くん、お昼何にする?」
 弾む様な弓香の声が、忍の思考を切った。
「何にしましょう?」
 立ち上がって、キッチンに足を向ける。
「宏幸くんも今日は午後からお休みだから、もうちょっとしたら帰ってくるし…」
「それじゃ、しっかりしたものが良いですね」
 まるで主婦の井戸端会議のような会話だ。
「そうねぇ…パスタにしよっかなぁ? うん、そうしよう!」
 彼女は人に意見を求める割に、最終的には自己完結してしまう。
 忍から見てそれはなかなか面白い行動だった。
「忍くん、ベランダからルッコラ適当にちぎってきて」
「はい」
 この多趣味な奥方は、ベランダにちょっとしたハーブ園を作っている。
 バジル、タイム、セージ、ローズマリー、イタリアンパセリ、ルッコラ、ペパーミント、ディル  所狭しと並べられたプランタは、実用重視の割にはそれなりに可愛らしく飾られていて、ガーデニングも兼ねている様だ。
「こんなもんですか?」
 一人二~三枚の計算で十枚程千切ったルッコラを弓香に手渡す。
「ありがと!」
 にこやかに微笑む料理長にハーブを手渡した瞬間、居間の電話がけたたましい呼び声を上げた。
「あっ! ごめ~ん、出てもらっていいかしら?」
 手が離せないらしい。
「良いですよ」
 忍は居間へ移動し、受話器を取り上げた。
「はい、川島です」
「おっ、忍君か? 家にいたんだな、ちょうど良かった。これから家に戻るけど、一人お客さん連れて行くから弓香にそう伝えてくれるかい?」
 宏幸からの電話だった。
「分かりました」
「うん、後二十分もしたら帰るから」
 そう言って、多忙な編集者は電話を切った。
 忍はキッチンに戻り、その旨を弓香に伝えた。
「あら、そう。じゃぁ麺増やさなきゃ  気難しいお先生じゃなきゃいいなぁ」
 編集者の妻は天井を仰いだ。
「あ、今の宏幸くんには内緒ね! 私、人が来るのは大好きなんだけど、どうも大御所~とか大先生~とか堅苦しいのニガテなのよ」
 わざとらしく舌を出して笑う弓香。
 何処がという訳では無いけれども、彼女は少し性格が千里と似ている様な気がした。
 歯に衣着せぬ物言いや、裏表の無い性格  何より前向きで力強い。
 聞いた話では、この人と背尾篠舞は中学校からずっと仲の良い親友だったと言う。
 背尾篠舞という人物もまた、自分と同じ様にこの力強さに惹かれていたのだろうか。
 それとも、彼女自身もまた同じ様に力強い人物だったのだろうか。
「うっふっふ~、でーきたっ! 今日は春が来たぞ桜・葉桜、パスタ~!」
 料理番組の様な「ふり」で弓香が盛り付け済みのパスタ皿を掲げた。
 塩バター風味のプレーンな麺にスモークサーモンとルッコラを盛っただけのシンプルなパスタだった。
 桜・葉桜と言うのは、その色合いの事らしい。
 この妙なテンションの高さだけは、未だに忍は馴染めないでいる。
 出来上がった料理を運ぶ弓香の足はダンスのステップでも踏んでいる様に弾んでいた。
 忍はテーブルの上にランチョンマットとシルバーをセッティングし、弓香から皿を受け取る。
 忍がそれらを並べているうちに、弓香は簡単なサラダを作り始めた。
 レモンと数種類のハーブ、そしてパルメザンチーズを摩り下ろしている。
 そしてサラダが仕上がり、取り皿と共に食卓に並んだ処で、玄関扉の鍵が回る音が聞こえた。

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