scene.2
宏幸に連れられ彼の自宅へ向かう道すがら、彼はいろんな話をしてくれた。
彼の妻もまた高校の同級生であり、志月にとっても旧くからの友人である事や、何よりも篠舞の親友であった事。
四人で行なった悪行の数々も、面白可笑しく語ってくれた。
「君、神経細そうだからなぁ。 大丈夫かな」
突然歩を止め、宏幸は真顔で呟いた。
「は?」
いきなり何を言い出したのだか、忍には全く分からなかった。
「うちの奥さん結構ずけずけ物言うけど、いちいち相手しなくていいからな」
冗談ではなく心配しているらしい。
(そんなすごいのかな…奥さん)
さすがにストレートにそれを質すのは失礼な気がして、「大丈夫ですよ」などと曖昧に答えた。
宏幸の自宅は、忍の通っている城聖学園を挟んで忍の家と反対方向の地下鉄に乗り、五駅ほど先のターミナル駅で下車。
そこから更に私鉄に乗り換え六駅を行く。
駅からは徒歩五分程だと宏幸は言った。
「ごめんなぁ、学校から遠いだろ? うち」
「そんな! 置いていただけるだけで助かってますから」
宏幸に済まなそうな顔をされ、忍は戸惑った。
「そうかぁ? そう言ってもらえるとこっちも気が楽だ」
宏幸が忍の髪の毛をぐしゃっと掻き混ぜた。
その動作が、忍には何だか少し照れくさい。
「おっ、そういやぁ君、ほとんど私物無いだろ? ここで少し買い足していくか?」
コンビニの前で宏幸が足を止めた。
「あ…、いえ大丈夫です。必要そうなものは入院中に大体揃えてありますから」
忍自身に収入などある筈も無いのだが、志月から持たされていた銀行口座の中に当座の生活費は残っていた。
もともと一年のほとんど日本にいない志月との生活費の遣り取りなどは、この口座を使って行われていた。
ところが、衣服や生活用品など必要なものは、直接会った時に現物を渡されたりしていたので、元来あまり浪費する事に興味の無い忍の口座からはほとんど支出が無かったのだ。
その為、当座の生活が賄える程度の貯金が、結果的には出来ていた。
しかし、それもまた自分自身のものという訳ではない。
他の人に迷惑を掛けるくらいなら、それを使う方がまだマシ、という程度だ。
(アルバイトの口も探さなきゃ、いけないな…)
忍がそんな事をぼんやり考えていると、宏幸に突然肩を叩かれ我に返った。
「どうした? 何度も声を掛けたんだが…驚かしたみたいだな。すまん」
びくっと肩を揺らした忍に、宏幸が申し訳無さそうに頭を掻いた。
「いえ、すみません 少し考え事をしていました」
「そうか。着いたぞ」
宏幸に言われ、目の前の建物を見上げた。
ちょっと古い造りの分譲マンションだった。
茶色い煉瓦風の壁と、ラティスを模したようなベランダの黒いフェンス。
その横には小さな出窓が縦一列に並んでいる。
建物自体は七階建てで、流行の超高層マンションの様なものでは無かった。
「あんまり広くないけど、まぁ我慢してくれ」
宏幸が笑った。
ざっと見た感じでは3LDKくらいだろうかと忍は思った。
今時の世情がどうかは分からないが、二十代の夫婦二人で子供もいないとなれば、それはどちらかと言うと広い方ではないかと思う。
宏幸の家は六階。
エレベーターを降りて右に折れ、三軒先の603号室だ。
出迎えてくれた宏幸の妻、川島弓香は先刻の話から想像していた人物像に反して、小柄でふんわりした雰囲気の可愛らしい女性だった。
少々ふっくらした体型に丸い眼鏡をかけている。
「いらっしゃい。初めまして、宏幸くんの奥さんの弓香です。よろしくね」
細いフレームの眼鏡の奥で、彼女の目が優しく微笑う。
そして、一言こう付け加えた。
「弓香でいいわよ。間違っても『オバサン』とか『オクサン』とか呼ばないでね」
「あ、はい 東条忍です。これからしばらくお世話になります。よろしくお願いします」
忍は深々と頭を下げた。
「んー、合格! なかなかいいご挨拶でした。志月君ちゃんと子育てしてたのねー。工ライエライ」
忍よりも二十センチは背の低い弓香が、忍の頭を撫でた。正確には、頭に届かず額を撫でた。
(こ、子育てって…)
いきなり飛び出してきた突飛な単語に、忍は面喰らってしまった。
「ゆーみーか! 年頃の男子の頭をやたらに触るなよ。固まってるだろうが!」
宏幸は、自らの妻の額を人差し指で弾いた。
「いったー! バカ力なんだから、手加減してよね!!」
「いでっ!!」
弓香の言葉尻に被るように今度は宏幸が声を上げた。弓香がすかさず宏幸の脛に蹴りを入れたのだ。
「……」
その攻防は余りにも一瞬の出来事で、忍は唖然として二人を見ていた。
「ああっ! ホラ見ろ! 今度こそ本当に固まってるじゃないか!!」
「あああっ! ごめんねぇ、びっくりした~? いつもこんなんだから気にしないでね」
慌てて弓香が呆気に取られた忍の顔の前に右手を振った。
「い、え…」
(びっくりしたと言うか、何と言うか…)
本音は『呆れた』だった。
「とりあえず疲れたでしょう? ほら、上がって上がって!! 荷物はこれだけ?」
忍が足許に置いていた大き目のボストンバッグを弓香はするっと拾い上げた。
「あ、ハイ」
まるで親戚の子供でも遊びに来た様な彼女の自然さに驚きつつも、忍は漸くそこで靴を脱ぎ始めた。