その時  
 不意に、ドアをノックする音が聞こえた。
「川島だけど、入ってもいいかい?」
 その声は、志月の親友だと言う、川島宏幸のものだった。
 火事を通報してくれたのも、その後志月に替わって、忍の入院手続きや、その他諸々の後処理を代行してくれたのも、彼である。
「どうぞ」
 忍はドアの外に聞こえる様に少し大きめの声を返した。
「お邪魔します…と、お客様だったか。って、何だ、水野君か」
 宏幸も千里も頻繁に訪れるので、二人は既に何度か顔を合わせている。
 ふと宏幸を見ると、彼もまた、千里に負けず劣らず大きな袋を提げていた。
「コレ、うちの奥さんから差し入れ。昨日家に帰ったら何やら甘ったるい匂いがしてたから、多分お菓子でも焼いてたんじゃないかな」
 しかし、差し出された袋は到底お菓子のサイズではなかった。
(お菓子の他に、何が入ってるんだろう…)
「ありがとうございます」
 中身を確認してみると、本当に全てお菓子だった。
 パウンドケーキやクッキーなどの焼き菓子が、五箱ほどに分けて入れられていた。
「あ、カード。……"お友達や、受け取っていただけるようならナースステーションの方にも"
   配っても、まだ余りそうですね…」
「面目ない。うちのヨメは加減と言うものを知らないんだ…」
 宏幸が肩を落とした。
「あはは。まるで忍のお母さんみたい。
 そのお菓子、オレの妹にちょっともらって帰ってもいいですか?」
 受け取った当の忍ではなく、千里が宏幸に返事した。
「ああ、どーぞ、どーぞ! 味の方はまあまあだから」
「わーい、ありがとうございます」
 嬉しそうに千里がお菓子の箱を一つ受け取った。
 千里があまり甘いもの食べない事を知っていたので、これは彼なりの助け舟だったのだろうと、忍は思った。
 こういう時の千里のタイミングは実に絶妙だ。
 好意というものの中には往々にして"社交辞令"という飾り物が混ざっている。
 それは、決して受け取ってはいけない種類のもので、辞退する事がマナーだ。
 しかし、それとは反対に、その好意を受け取る事で相手が喜ぶ事だってある。
 千里はその線を見極めるのが上手だ。
(俺は…本当に判らない。どこまでが、受け取っていいものなのか)
 宏幸の善意は、何処までが本当に受け取っていいものなのか。
 忍にはまるで見当が付かなかった。
「そう言えば、君ら何の話してたんだい? 俺、話の腰折っちゃったんじゃないの」
 お菓子騒動が落ち着き、宏幸がやっと腰を下ろした。
「いや、そんな大した事  
 忍が"大した話ではない"と言おうとした瞬間  
「川島さん、忍の保護者さんなんですけど、まだまだ入院長引きそう?」
 千里の声が忍の台詞の語尾に被った。
「え? ああ、多分。当分出られないんじゃないかな」
 宏幸は、志月の病院にも頻繁に訪れている。
 ただ友人と言うだけではなく、雑誌の編集者である彼は、昨年末、志月にある雑誌の記事を依頼している。
 ビジネス的にも重要な用事を抱えているので、尚の事マメにならざるを得ないらしい。
 仕事の話もある為、尚マメに通っている様だ。
「実は、今日はその事で来たんだ」
 宏幸が言った。
「え?」
 忍と千里がステレオで聞き返す。
「忍君、あと少しで退院だろ? 志月はまだまだ出して貰えそうもないし、あいつが出てこなきゃ、家も建て直すんだかどうだか決められないし。それで、ものは相談なんだが、君が退院したらしばらくうちに来るって言うのは、どうかな」
 爽やかに微笑し、宏幸が言った。
 ありがたいと思いつつも、ほとんど面識の無い相手にそこまで甘えて良いものか、忍は即答出来なかった。
 それでなくとも、彼にはこの入院騒ぎで随分な面倒を掛けている。
(これ以上は…ちょっとな…)
 かと言って、他にアテも無い。
「川島さん! それ! オレもその話してたの!! 退院したら行くとこ無いじゃん? って!」
 忍が答えに迷っていると、何故か千里の方が先に宏幸に答えていた。
「あ、そうなんだ。そりゃちょうど良かった。忍君、どうかな?」
「え…でも」
 家族もいるだろうし、迷惑なのではないか、と質そうとすると、それより先に宏幸が答えを言った。
「家で奥さんともよく話して決めた事だし、うちの奥さんもオレや志月と同じ高校でな、あいつとは知らない仲でもないんだ。それに、今はまだ子供もいないし、家に人が増えるってのが嬉しいみたいで、君が来てくれたら、喜ぶよ。専業主婦だから、話し相手が欲しいみたいでね」
 川島宏幸という人は、いつもこうやって忍の言葉を先に拾って蓋をする。
 気掛かりの答えを先に言われてしまった忍は、それ以上何も質す言葉が出なくなってしまった。
(本当に…良いのかな)
「忍、いいんじゃないの? この際甘えさせてもらったら。
 今の君に出来る事なんてタカが知れてるでしょ。甘えさせてもらえるなら、その方がいいと思うんだよね。
 それでも、どうしても甘えっぱなしになりたくなければ、バイトして家賃入れるとか、折衷案はいくらでも出そうじゃない」
 横から、千里がこそっと忍の背中を押した。
「おっ、良い事いうねぇ水野君。そんな訳で、決まりにしちゃって良いかな?」
 千里の言う事も最もだった。
 今の自分では、何一つ解決出来ない。
 差し伸べてくれる手があるなら、今はそれに掴るべきなのかもしれない。
「ありがとうございます。…よろしく、お願いします」
 千里が背中を押さなければ、きっと断っていた。
「良かった! じゃあ、部屋を用意しておくよ。気が変わったとか言わないように頼むよ?」
 宏幸がそう言ってウィンクをしようとして、失敗。
 中途半端な顰め面に、口だけが笑っていた。
 忍は、宏幸の善意や、千里の好意に、未だに戸惑ってしまう。
 正直、本当に甘えてしまって良いのかどうか分からない。
 この時の忍は、言わば鳥籠が焼け落ちて放された鳥の様だった。
 己の身体が自由である事に戸惑い、伸ばされた手が優しいのか、怖いのか、判断出来ず更に惑う。
 しかし、忍を捕らえ、閉じ込め、一方で庇護し続けた籠はもう無いのだ。
 これからは、全てを自分で決めなければならない。

 退院は、三日後に迫っていた。



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