scene.6
志月がその店を後にする頃には、その子供の姿は提灯の下には無かった。
(いない…)
やがて時間となり、志月は連れ立ってきた面々と共に寂れた花街を後にした。
木ノ内のホテルまで戻った後、挨拶もそこそこに志月は自室へと引き籠る。
狐に抓まれた様な気持ちだった。
(あの子は)
目に焼き付いて離れない、白い服の子供。
あれは、行き場のない感情が作り上げた、都合の良い幻想だったのだろうか。
実は、白昼夢を見ていたのではないか、と志月は思った。
(あんなにも、よく似た顔の少女 )
擦り切れた白いワンピース。
擦り傷だらけの足。
擦り切れた心を映す、途方に暮れた瞳。
『もっとも、いつまでもこんな町におったら』
朱色の襦袢の女が、閉じた目の奥で溜息を吐く。
『何れはそうなるんかもしれへんけど』
寂しげな微笑が脳裏に浮かぶ。
あの子も何れ、ああやって襦袢を羽織り、格子窓の中で客を待つようになるのだろうか。
それとも、異国の果てでバラバラに切り分けられて…?
(篠舞は )
遠い異国で切り分けられた恋人。
それを思うと居た堪れない気持ちになった。
痛々しいまでに無表情だった子供の顔に、篠舞の笑った顔が重なる。
あの鮮やかな笑顔が、どんなに無残に切り刻まれたのだろう
今まで、とても遠くに感じていた現実が、急に身体に染み込んでくる。
血管の中を小さな虫が這い回るような嫌悪感に襲われる。
指先が冷たく、小刻みに震えた。
あの子供を、どうにかあの場所から連れ出したい。
衝動的な感情に背中を強く押された。
同時にそれは一種の感傷であったかもしれない。
明日、子供を一人救った処で、昨日死んだ彼女は戻らない。
自分自身が救われるとも思わない。
(それでも)
理性では、止めろと言っている。
それでも 震える指で、志月は一本の電話を掛けた。
それは、十三歳上の兄、佳月の部屋の直通番号だった。
個人的な事で兄を頼るのは、小学生の頃以来だ。
次期総帥の地位を継ぐ兄は、血の繋がった肉親でありながら、同時に遠い存在でもあった。
兄とは、十五分ほど話をした。
結婚もしないうちに、『子供を一人引き取りたい』などと言い出した弟の話を、兄は簡単にあしらったりせず、真面目に聞いてくれた。
篠舞と結婚しようと決めた時も、この兄は心から祝福してくれた。
お互いの立場の差や年齢差もあって、兄とは兄弟喧嘩すらした事が無い。
それでも、志月が何かを決めた時、真っ先に味方してくれたのは、いつも兄だった。
だからと言って、先述の通り、志月は平常から兄を頼みにしていた訳では無い。
ただ、今回ばかりは、自力で乗り越えられない壁があった。
この時志月は、まだ十九歳 未成年だったのだ。
正式に、未成年者を引き取る為には、成年者の身元引受人が必要だった。
こればかりはどうしようもない。
志月の、唐突で非常識なの頼み事に対して、兄は呆れながらも反対しなかった。
志月は、兄が肯定的に返答した事に驚いた。
当然反対されるものだと考え、どうやって説得するかに心を砕いていた分、志月は拍子抜けした。
そして、あまりにすんなり受け入れた兄に対して、却って引っ掛かりを憶えた。
(いや、今は深く考えないでおこう…)
せっかくすんなり協力してくれると言うのだ。
有難く受け取っておこう。
あまりにもあっさり了承した兄の態度は、明らかに不自然だ。
しかし志月は、敢えてその不自然さに目を瞑った。
ただ、この件に関して、兄から幾つか条件は付けられた。
まず一点は、全ての手続きを専門の弁護士に任せる事。
こういう事で万が一、法律から外れる行いが一つでもあれば、そこから綻びが出来て、周囲に付け入る隙を与えるからだ。
更にもう一点は、引き取る子供の法律的扱いについて。
志月が成年するまでの間はその子供を『東条佳月の養子』として兄が預かるが、その後は必ず志月の籍に移す事。
それは、佳月自身にまだ直系の男子がいない為、法律上はその養子が佳月の長男になってしまうからである。
もう一つは、志月の東条家から受け継ぐべき遺産を、その子供には一切相続させない事。
その二つは、早い話がこれから迎えるその子供には、東条家の財産に関して一切相続権を認めない、という内容だった。
それは正しい。
下手にそんなものを認めてしまえば、闘争の火種にしかならない。
とにかく、これで後は行動に移すだけ
今度は、救えるんだ。
頼まれもしないのに、ただの自己満足だと思った。
それが偽善ですらない、ただの独り善がりなのは十分に解っていた。
今度こそ…。
それでも、衝動に支配された脳は坂を転がる様に、
今度こそ。
安っぽいヒロイズムや、
独善的なヒューマニズムに、
ただ身体を絡めとられているだけだとしても、
今度こそ、救える。
志月は、生まれて初めて自分のものではない権力を振るう。
形振り構わず、"家"の力を使う。
躊躇いが無い訳ではない。
(それでも…)
固く瞳を閉じて、志月は大きく息を吐いた。