二年前 ― 千里 ―

scene.1

 転寝していた千里を叩き起こしたのは、頭の上で鳴り響いた轟音だった。
 文字通り飛び上がり、周囲を見渡す。
 その音は、通風口から入ってきた様だ。
 どうやら車のエンジンを回した音らしい。
 マフラーから派手にエンジンを吹かす音と、立ち上がりに追いつかないタイヤの放つ悲鳴が、夜の静寂を劈く。
 その音は千里の頭の上を右から左へ通り過ぎ、最後は門にでも引っ掛けたのか、硬い金属音を響かせて消えていった。
(えー、信じらんない…今、何時だよ…)
 暗闇に支配された地下室の中、千里は腕時計のライトを点けた。
「十二月…二十三日、午後十一時五十分…あと十分で、クリスマス…イブ、か」
 何て中途半端な時間に起こしてくれたのだろう。
 千里は溜息を吐く。
 これで、今夜はもう眠れない。
 身体をほとんど動かさないので、体力を使わない分眠りが浅い。
 そして、一度目が覚めると次は中々寝付けないのだ。
 千里は、寝台から腕を伸ばして灯りを点けた。
 何とも頼りない裸電球の、寂しい光がぼぅっと灯る。
「あーあ、すっかり夜昼逆転しちゃった! 社会復帰するのに苦労しそう」
 殊更大きな声で、独り言を言った。
 ここ数日、忍とはまともに顔を合わせていない。
 目を覚ますと食事は置かれていた。
 ただし、本人の宣言通りほとんどが出来合いのものばかりだった。
「何してんのかなぁ…。そういえば、何だかよく分からないけど、保護者の人が今家にいるって言ってたっけ。それで思うように動けないのかな?」
 保護者  忍は、その人を指して支配者と言った。
(どういうこと?)
 拾われたと言っていたから、養子なのだろうけれど  
「それでも、『囚われの身』なんて言葉、普通使わないよね」
 千里は、自分の事よりも忍の事の方が気になって仕方が無い。
 彼は一体何者なのか。
 彼から伝わってくる張り詰めた空気。
 それは、自分達の様な普通の高校生とは何処か違っていた。
「あーあ、オレの頭ってこういうこと考えるのに向いてないんだよねー」
 千里は溜息を吐きながら、一度起こした身体を再び寝台に投げ出した。
(だけど…だけどさ、結局、何で忍がオレのことを嫌ってたのか、まだ分からないままなんだよね)
 今でこそ、何だか知らないうちに忍の方が考えを改めた風で、当初の一触即発状態から抜け出てはいた。
 しかし、依然として事の起こりは分からないままだ。
 何故、こんな仕打ちを受ける程嫌われてしまったのか。
 それも、あの日まで一面識も無かった  音楽科ですらない、彼に。
(あの時と一緒だ…)

  二年前の、あの事件の時と同じだ。

(オレは、自分で気付かないうちに人を傷付けてる)
 千里は腕で顔を覆って、固く目を閉じた。
(あの時、オレは確かに傲慢だったのかもしれない。  こんな風に思うのも、今になってやっと、だけどさ)
 当時は、そんな事を考えもしなかった。
 ついこの間、北尾と口論した時も、まだ考えていなかった。
 千里の事を『嫌いだ』と言った忍。
 彼の追い詰められた姿を目の当たりにするまでは。
 あんな風に、ギリギリに追い詰められた人間の姿を見せ付けられるまでは。
(ほんと  最初は、冗談じゃなく殺されるかと思ったもんな)
 わざと怒らせて、口を塞がれた時だ。
 あの時は千里自身が分かっていて挑発した。
 それは分かっている。
 しかし、逆に言えば、あの程度の事であそこまで激昂させるほどの下地があったと言う事でもあった。
 千里はそれを、普段の自分の態度や立ち居振る舞いに起因しているのではないかと考え始めていた。
 その事を、あの時に気付いていたなら。
 二年前のあの時に気付いていたなら、少なくとも北尾にはあんな負担を掛けないで済んだのだろう。
 過去に置き去りにした問題が、ようやく解かれようとしている。
 千里は、長く閉ざし続けてきた扉を、自らの手で押し開こうとしていた。


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