scene.5

 その沈黙はどの程度の長さだっただろうか。
「あ!」
 忍が突然大きな声を出した。
 絡み付いていた腕がするっと外れる。
「何だ!?」
 つられて北尾も大声を出してしまった。
「あっ、あの! そう言えば何時ですか?」
「え? ああ、時間? ちょっと待てよ」と、北尾は机の上の時計を見た。
「十二時を少し回ったところかな」
「えっ!?」
 忍が慌てた様子で寝台から飛び降りた。
「おい! 勝手に悪いかなとも思ったんだけど、生徒名簿で電話番号調べて家には連絡入れといた!!」  部屋まで飛び出しそうになった忍の腕を、北尾は掴んで止めた。
「あ…そう、ですか…」
 忍が、気の抜けた様にぺたんとその場に座り込んだ。
 彼のこんなに動揺している様を見たのは、短い時間の中とはいえ初めてだった。
「そんなに門限うるさいのか? 一緒に住んでるの、あの兄貴だけだろ?」
 年の差から言って、親子ではないだろうという程度の想像で言ったのだが、忍がきょとんとした顔をしたので、違ったのだろうかと、北尾は首を捻った。
「いえ…」
 何やら口ごもり、忍が目線を逸らした時、母親の声が階下から響いた。
「智史ー、お迎えの方みえたわよー」
「早いなぁ。この時間この辺り混んでるのに。繁華街が近いから、終電時刻になるとタクシーの台数がすごいんだよな」
 独り言を呟きつつ、北尾は腰を上げた。
 その時、何を躊躇っているのか、忍が階下へ降りる足を中々進めなかった。
(叱られるのかな?…だとしたらもっと早く起こしてやれば良かったかな)
「帰るんだろ?」
 ドアの横に掛けてあったコートを渡してやると、神妙な顔のまま彼は、無言で袖を通した。
 階段を降りると、玄関先で母親と忍の保護者が談笑している。
 昼間見たあの気難しそうな顔からは想像できない穏やかな様子だった。
(何だ、別に心配する様なことないじゃないか)
 日中の厳しい顔は、仕事中だったからかもしれない。
 思い起こせば、あの時彼は何やら書き物をしていた。
「今晩わ。どうもすみませんでした、遅くまで引き止めてしまって」
 北尾は深々と頭を下げた。
「いや、こちらこそご厄介掛けました。どうもありがとう。これに懲りずに仲良くしてやって下さい」
 目の前の人は丁寧に頭を下げた。
 北尾の母親と志月が挨拶を交わしている間、忍は少々慌てた様子で靴を履いていた。
 その様子はまるで、小学生の様で思わず北尾は笑ってしまった。
「それじゃあ、今日はありがとうございました。ご迷惑をかけてしまって…すみません」
 靴を履き終えると忍はこちらに向き直り、深く頭を下げた。
「このくらい、ちっとも迷惑じゃないから。こっちこそごめんな、こんな時間になっちゃって。それよりも二日酔いにならんことを祈っとくよ」
 北尾は、忍の頭を軽く撫でた。
 その時、忍が小さな動作で、北尾の手を外した。
 しかしそれは、今までの様な生理的な反応ではかった。
 背後の人物を気にしながら、困惑した顔をしていた。
 それが北尾の目には不思議だった。
(何だろう。家族の前で子供扱いするなってことか?)
 北尾はより不可思議な反応をされ、首を捻る外無かった。
「ウチのことは気にしないでね。いつもみんな飲み会の時には泊まってくくらいなんだから。また是非来て頂戴ね」
 北尾の横で母親もまた、忍に声を掛けた。
「はい、どうもありがとうございます。お邪魔しました」
 忍が深くお辞儀した。
「また、是非お伺いさせて頂きます」
 母親の言葉にそう答えた忍の様子が、まんざら社交辞令でもなく見えたのは、北尾の自惚れだろうか。
 初対面の頃に比べれば、忍の態度も幾らかは軟化している様な気がする。
 きっかけはともあれ、せっかく知り合う機会を得たのだし、出来れば、順方向へ風が吹くと良い。
 元来世話焼き体質の北尾にとって、千里とはまた違う意味で、忍の不安定さは気になるのだった。


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