scene.7

 明け方四時頃、志月が熟睡しているのを確認して忍は千里のいる地下室を訪れた。
 最も、彼は就寝前に薬を服むので眠ってしまった後は起きてくる心配はほとんどないが。
 パンだけでは足りなかっただろうと思ったので、コンビニで食料を買い足したのだ。
「いきなり、すっごい手抜き!!」
 こんな時に限って、千里が起きていた。
「うるさい。黙れ」
 忍はわざと素気無く言った。
「ご飯だけが唯一の楽しみなのに…ひどい。今日だって菓子パンだった…」
 わざとらしく泣き真似をしながら、千里が不平を鳴らす。
 千里の、こうやってすぐ茶化す癖には、忍は何故か腹立たしさを感じなかった。
「不服なら、このまま持って帰る」
 コンビニの袋を提げたまま、忍は地下室を出て行こうとした。
「わっ! ウソ! おにぎりサイコー!!」
 慌てて千里は忍の服を引っ張った。
 もちろん忍も本気で怒った訳ではなかった。
 千里がどう返してくるのか、見たかっただけだ。
 あれ以来、千里に対して苛立ちや嫌悪を感じなくなっていた。
 いや、そういう言い方は正確ではないかもしれない。
 徐々に分かってきたのだ。
 千里に向けられていると思っていた、自分の中の負の感情  それらが、別の方向に向かっている事を。
「…ごめん」
 ぽつりと忍が謝った。
 千里は、本当に理不尽に捉えられたのだ。
 他ならぬ、忍自身の手によって。
 千里はただ、忍にきっかけを与えたに過ぎない。
 忍の中に、感情の波を起こすきっかけを与えたに過ぎなかった。
 どうしてこんな事をしてしまったのだろう。
 後悔の気持ちが、忍の中にじわりと滲んでいた。
(千里は、何も悪い事をしていないのに)
 謝った処で、今更どうしようもない。
「え?」
 突然謝られて、千里がきょとんとしている。
「あ…いや、しばらく、コンビニの食事が続くと思う…から」
 どう伝えれば良いのか、分からなかった。
 自分の中に芽吹いている気持ちを、どう説明して良いのか分からず、咄嗟に誤魔化してしまった。
「ああ、そのことか。別にいいよ、オナカ膨れたら」
 千里は納得した様だった。
 自分の立場など忘れたかの様に平然としている千里の顔を見ていたら、忍の喉許に自然と言葉がせり上がってきた。
「ごめん……。
…本当は、囚われてるのは、俺の方なんだ。  指先一つ動かすのさえ、俺の、自由にはならない」
 それは謝罪の言葉と、忍の中から零れ落ちた弱音だった。
 千里にこんな事を言ってしまってどうするのか、忍自身にも分からない。
 ただ、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「…どういうこと?」
 唐突に切り出された話に対して、思いの外冷静に、そして真面目に千里が答えた。
 意外な事に千里が話を聞く姿勢を示したので、忍はもう少し話を続ける事にした。
「普段は、この家には俺しか住んでいないんだ。だから、今までは食事の事でもその他の事でも自由に出来たんだけど  数ヶ月に一回くらいの割合で、俺の…保護者が帰ってくる」
 志月の事をどういう言葉に表したものか、忍は戸惑った。
 「保護者」と言うのが決して彼に当てはまる表現ではないのは分かっているのだが、そのようにしか言い表す事が出来ない。
「本当なら、もう、千里の事…自由にしてやりたい。だけど、今はその人が帰ってきているから…それも出来ない」
 話しながら忍は、千里の腕を戒めていた布を静かに外した。
「オレのことはこの際おいといて、続きを聞かせてよ。
 それは、お父さんとか、お母さんとか…そういう、人…なの?」
 千里がすっかり神妙な顔になっている。
「お父さん…ひょっとしたら、そうなってるかもね。  戸籍の上では…。実際、どうなってるかは、分からない」
 「東条」という苗字を名乗って  私立とは言え  学校に通っている以上、何らかの形で、戸籍が動かされたのは確かだが、それ以上は分からない。
 また、志月にそれをを訊ねようとした事もない。
「オレ、あんまり勉強の方の頭よくないんだけど、もう少し解りやすく言って?   保護者って? 囚われの身って、どういうこと?」
 千里は、頭の中で整理しきれず困惑してしまった様だ。
「俺には血の繋がった家族はいないんだ。
 六年前、ある人に拾われて…ここにいる。
 俺はその人にとって、この家の中にある家具や調度品と同じ、ただの持ち物なんだ。
  だから……何一つ自由にならないんだよ」
 生殺与奪を握られている、己の立場。
 何故自分がこんな事を千里に話しているのか解らなかった。
(解る訳無いのに…)
「そんな、バカなことないでしょ!? 人間は人間! 物になんかならないよ!」
 真っ直ぐな千里。彼は忍の告白した内容に、心から憤慨しているようだ。
 己こそが、理不尽に自由を奪われている身だというのに、そんな事も忘れて怒っている。
「…千里は、呆れたお人好しだな」
 忍は思わず苦笑してしまった。
「あ、そーか! オレがつかまってんだっけ」
 どうやら、本当に失念していたらしい。
「…ま、いいよ。もー少しつきあったげる。オレもちょっと雑音を遮断して考えたいこともあるし。  それに、訊かせてもらわないとね! オレのことキライな理由!」
 千里は忍の顔を正面から見据えて、勝気に笑った。
「そんなの、訊きたいものか?」
 自分が嫌われている理由なんて。
「オレは、シロクロはっきりしないのダメなんだよね。身に降りかかる災難の理由を知らないのは、納得いかないタチなの。どんなイヤことも、知らなきゃ…受け止められなきゃ、先へ進まないよ」
 千里の言葉が、ちくんと刺さった。
 千里は自分の事を言ったのだろうけれど、それはそのまま、忍自身にも当て嵌まっていたから。
 返事に窮して、窓に目を遣ると空が白んできているのが見えた。夜が明けた。  どうやら六時を回ったらしい。
  ああ、千里、残念ながら時間切れみたいだ。空が大分明るい」
 時間が時間が無くなったのを理由にして、忍は早々に退出する事にした。
「しょうがないなー。じゃ、次こそ訊かせてよね!」
 態度の大きい囚人は、口を尖らせながら、しぶしぶ諦めた。
「次には、きっと」
 実は、もう千里の事を「嫌い」ではないのだけれど、今はまだそれを上手く説明出来ない。
 そして、もう少しの間千里を傍に置いておきたかった。
 もう少しの間  
 本当に伝えたい事を話せる時が来るまで。


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