final epilogue. 二重螺旋
張り詰めた朝の空気を、身体の隅々に送るように深く息をする。
そんな深呼吸を、数度繰り返した。
しばらく明人の消えた廊下をぼんやりと眺めていたが、いつまでもそうしていても仕方が無い。
七海は医局へ戻るべく腰を上げた。
その時。
ついさっき明人が消えた廊下を、反対にこちらへ向かって歩いてくる人影が見えた。
大柄な身体と、生真面目にボタンを留めた白衣。
短く整えた黒髪。
それは、七海の生徒、兼、恋人 遠藤の姿だった。
(面白いくらい、対照的だな)
何も知らず歩いてくる姿を眺めながら、七海は苦笑いせずにはいられなかった。
何せ遠藤ときたら、万事、生真面目が服を着て歩いているような人間だ。
彼との付き合いも、もう1年を超えた。
真正面からぶつかったり、時にははぐらかしたり。
何度か喧嘩もしたし、擦れ違いもした。
それでも、どうにかこうにか続いている。
「何だ、喫煙室にいたんですか? 煙草も吸わないのに、珍しいですね。捜しましたよ…」
七海の前まで近付くと、彼はくたびれ顔でそう言った。
「何だ、僕を捜してたのか。PHS鳴らせば良かったのに」
何か用事がある時、どこにいても掴るように、院内用のPHSを持たされているのだ。
「何言ってんすか。初療室に置きっぱなしでしたよ」
呆れ顔で遠藤が溜息を吐く。
「あれ、そうだっけ……」
言われてみれば、初療室を離れる時は付き添いへの説明を済ませたらすぐ戻るつもりでいたため、置きっぱなしにしていたような。
「悪い悪い。で、どうかしたか?」
「どうかしたか、も何も…もうすぐ退勤時間ですよ」
やれやれ、とでも言うように遠藤が言った。
「え? もうそんな時間?」
慌てて時計に目を落とす。
6時50分。
退勤時刻まで、後10分だ。
「今、朝のカンファレンスやってたんですけど…つか終わったとこなんですけど、特に申し送り事項が無ければそのまま帰っていいって言われたんで、それを伝えにきました」
「あーあ…うっかりサボっちゃったな」
溜息が洩れた。
「まあ、もともと大村さんが搬送されてきた時点で、休憩がズレこみましたから サボりじゃないんじゃないですか? 厳密にはまだ一応休憩時間でしょう。
まあ、勤務自体明けてしまった訳ですが。患者の付き添いに掴まっちゃ仕方ないな、って感じでしたよ、みんな」
助手は、そう言って和やかに笑った。
そう言えば、患者の付添い人と医事面接中ということになっているのだった。
途中からすっかり昔話になってしまい、綺麗に忘れていたが。
「ま、じゃ、今日はオマケにしといてもらおうかな。休憩中そのまま上がりってことで」
冗談めかして笑って見せた。
休憩がずれ込み、そのまま明け。
こんな平和な朝くらいは、そんな事があってもいいだろう。
そもそも、いつスクランブルがかかるか分からない救急医の休憩など、有名無実と言おうか、何時から何時とは決めがたいもの 何事も無ければ、それで良いのだ。
「お前も上がり?」
伝言を提げて現れた遠藤に、改めて問い直す。
「ええ。俺はもういつでも出れますよ。カンファも済んでますし、PHSも引き継ぎましたからね」
「じゃ、帰ろうか」
七海は、自分より10センチ近く高い肩を叩いた。
別に同棲している訳ではないのだが、シフトが重なった日は退勤そのままの流れで、一緒に過ごす日が多い。
いや、そのくらいしか二人きりで過ごせる時間が無い、と言うのが、本音かもしれない。
「そうですね。…あ、その前に一服してっていいですか?」
そう言いながら、遠藤は白衣のポケットを叩く仕草をした。
煙草だ。
七海の部屋でこそ吸わないが、これでいて遠藤は愛煙家だ。
「そういや、お前も意外と本数多いね…」
やれやれ、と七海の口から溜息が洩れた。
「 『も』?」
不思議そうな視線が七海に刺さる。
無意識に口走ってしまったが、これはあまりよろしくない。
「…医局長とか、技師さんとか、結構 へビースモーカーが多いなぁ、と思ってね」
適当に誤魔化す。
「まあ、何て言うんですかね…言い訳にちょうどいいんですよ。煙草」
既に火を点けた煙草を片手に、遠藤が苦笑いした。
「言い訳?」
喫煙の習慣が無い七海には判別の付かない言葉だ。
「身体にしろ、気持ちにしろ、パンパンになる瞬間ってあるじゃないですか。どうしてもちょっと一息入れたい、みたいな。そういう時 特に勤務中なんか、煙草っていいアイテムなんです」
「ふうん…?」
「だって、『5分休憩してきてもいいですか?』って言うのは中々難しいですけど、『一服してきていいですか』って、比較的言いやすいでしょ? 吸う人が多いから理解してもらいやすいってのもありますけどね。 どうしても逃げ出したい時とか、沈黙に疲れた時とか、ちょっとしたエスケープが出来るんです」
なるほど。
そうか。
(言い訳…か)
発言者である遠藤より、今し方去っていた人物を思い浮かべてみた方が、より納得がいった。
「今まで、考えた事も無かった」
「まあ、吸わない人は分からなくて普通なんじゃないですか?」
遠藤が笑った。
そして、早々と吸い終わった煙草を揉み消した。
「さて、帰りましょうか」
素早く立ち上がると、彼は、隣に腰を下ろしていた七海の腕を引き上げた。
・
・
・
病院を出る頃、すっかり日は昇りきっていて、早朝の、あの切れるような清しい空気は霧散した後だった。
午前7時を少々回っていた。
通勤ラッシュにはまだ少しばかり早い。
まだまだ人気の無い道で、部活動の早朝練習に向かう高校生と時折擦れ違う。
その道は、七海の住むマンションへ続く道だ。
そして、更に真っ直ぐ5分も歩けば、かつて明人との待ち合わせによく使った公園が、今も同じ姿で残っている。
例えば、明人の事を今でも好きか、と問われれば、おそらく好きなのだろう。
これからもきっと嫌いにはならないし、忘れる訳でもない。
だからと言って、それは未練ではない。
もう一度やり直そうなどという気持ちも、さらさら無い。
むしろ、例えばもう一度彼とやり直したとしても上手くいかないだろう、と確信すらしている。
別に、自分自身に今現在別の恋人がいるからそんな事を言うのでもない。
結局のところは、『終わった』と言う事なのだ。
明人と七海は、ずっとお互いの背中を追いかけていた。
くるくる回りながら、永久に交差しない2本の螺旋が平行に絡み合うような関係だった。
追いかける事に必死で、向かい合う事が出来なかった。
(それこそ、距離をゼロに近付けたくて、必死だったのかもしれないな )
相手との距離など、考えた時点で それは遠いのかもしれない。
さっき、喫煙室で話しているうちに、それが判ったのだ。
(距離を縮めたいと考えるのは、つまり縮めたいだけの距離があるってことなんだ…)
そして、相手の背中ばかり追いかけているうちに、息切れして、勝手に疲れて 傷ついて。
(それじゃ、駄目だ)
相手の背中を追う事ばかりに必死になっていた季節は、通り過ぎた。
では、消費した時間とエネルギーは全て無駄だったのだろうか。
違う。
その時代があったからこそ
相手を受け止める事を覚えた。
時には支えられて立つ事を、受け入れられるようになった。
正面から向き合う事が出来るようになった。
目の前の大切な人を、素直に大切だと思える自分を手に入れた。
そんな今の為にあった経験だったなら、無駄ではない。
いや、もともと無駄なんてものはどこにも無い。
通り過ぎた季節は全て、今の自分を構成する要素。
それら一つ一つが、やがては結晶化して、自分という人間を飾る彩になるのだろう。
七海は、大きく一つ深呼吸した。
そして、隣を歩く恋人の腕に、自らの腕を絡みつかせた。
「 ?? 珍しいですね。どうしました?」
普段、表を歩いていて腕を組むなどした事がなかったので、相手は不思議そうに七海の顔を覗き込んだ。
「別に、どうもしないよ」
特に、理由は無かった。
ただ、したかっただけだ。
「???」
遠藤は尚も不思議そうに首を捻っていたが、別に振り解こうとはしなかった。
勤務明け。
帰り道。
数え切れない回数、肩を並べて歩いた。
これから何度、こうして歩くだろう。
今日が最後かもしれない。
どちらかの時間が途切れるまで続くのかもしれない。
そんな事は、誰も知らない。
でも
だからこそ
過ぎた時間も、これから過ぎるはずの時間も、同じだけ大切なのだろう。
七海は、絡めた腕を少しずらして手と手を結んだ。
絡み合った螺旋が、先端で固く閉じた。