Recollection.29 空転

 夜、20時。
 桜川病院、屋上。

 その日は、通し当直だった。
 休憩の度に携帯を確認したが、朝、着信が1回あったきり、明人からの連絡は無かった。
 七海からも何度も掛け直したが、いずれも圏外のガイダンスが流れるのみで、繋がる事は無かった。
(仕事中なのか…それとも  
 わざと出ないのか。
 どうしても、マイナス方向の想像ばかりが膨れ上がる。
 相手も客商売。
 当然仕事中は携帯の電源を切っていてもおかしくない。
 ただ、今更に思うのは、連絡をくれていたのはいつも向こうからだったと言う事。
(まさか、こっちから捉まえるのがこんなに難しいと思わなかった…)
 七海は携帯の電源を切り、ポケットにしまった。
 院内で電源を入れられるのは、一般外来の許可されたスペースと、屋上だけ。
 前者は、外来が終わってしまうとセキュリティの関係でシャッターが下りてしまうので、この時間になると屋上しかない。
 フェンスに凭れて、溜息を吐く。
 飛び降り防止の為に、病院のそれはやたら背が高い。
 天辺にはご丁寧にバラ線まで巻かれて、まるで監獄のようだ。
 午前中は晴れていた空が、今は曇っていて、空には月も星も見えなかった。
(明人の働いてる店って…駅前って言ってたな)
 フェンス越しに、駅前の方角に視線を移した。
 桜川町は住宅街だ。
 夜になると静まり返り、街灯以外の灯りは無い。
 飲食店や居酒屋の多い駅前だけが明るい。
 その灯りは、七海の立っている場所からひどく遠かった。

 しばらく駅前のネオンを眺めた後、七海は屋上を離れた。

 医局に戻ると、指導医の笹倉が何やら週刊誌を広げていた。
「おい、常盤木」
 七海の顔を見るなり、彼は少々不機嫌な様子で立ち上がった。
「はい。何ですか」
「お前あんまし休憩の度に消えるなよ」
「はあ、すみません」
 院内にいるのだから、問題無いと思うが。
 と、思いつつ、その台詞は辛うじて飲み込んだ。
 上官に逆らってはいけない。
 医局は意外と体育会系  というか、軍隊組織だ。
「俺はこれからちょっと用事があるからさ、お前、医局から出るなよ」
 用事。
 当直勤務のさなかに、どんな用事だ。
 七海は心の中で舌打ちした。
 本人は気付かれていないと思っているようだが、彼は七海と二人の当直勤務になると、いそいそと雀荘へ行くのだ。
 そこへ、救急搬送の受け入れ許可を求める電話が、夜間受付から回されてきた。
 電話を取ったのは、七海だった。
「常盤木、担当医が不在って言って断っとけ。聞いてりゃ行旅病人じゃねえか。ヤバイの来たら、手に負えないだろ」
 小声で笹倉が耳打ちをする。
 行旅病人  いわゆるホームレスを指す。
 この受け入れに関しては、実際様々な問題があり、
 一つは衛生面。
 他には、無保健者が多いこと。
 搬送されてくる時点で、多臓器に疾病を抱えていることも多い。
「でも  
 受話器の向こうで許可を求める救急隊員は、必死で緊急事態を訴えている。
「いいから! 早く断れ!」
 どの道、笹倉はこれから出掛けるつもりをしている。
 レッドタグの患者が運ばれてきたら、例え看護師や技師がどれだけベテランでも、医師が七海だけでは対応しきれない。
 結局、受け入れを拒否せざるを得なかった。
「いいか、俺のいない間に黙って救急搬送引き受けんなよ。後で泥被るのはこっちなんだからな」
 違うだろ。
 職場放棄がバレるから嫌なんだろ。
 慌ただしく医局から出ていく笹倉の背中を、苦々しく見送った。
 一応桜川病院は2次救急指定病院だが、日によって受け入れる診療科目が変わる、近辺の病院と交替当番制を取っていた。
 本日の当番科目は内科。
 さっきのような救急要請が入らない限り、外科にお鉢は回って来ない。
 病棟内で急変が無い限り、今のところこれと言って業務も無い。
(とりあえず、一応僕も休憩中だし、今のうちに仮眠しとこうかな…)
 七海は、医局内の仮眠スペースに移動することにした。

 静まり返った部屋。
 微かに聴こえてくるのは、パソコンの駆動音。

 さっき断った患者は、どこか他の施設で受け入れてもらえただろうか。
 それとも、まだ救急車に乗せられたまま、彷徨っているのだろうか。
 七海は、笹倉が嫌いだ。
(麻雀なんか行かなきゃ、受け入れ可能だったんだよ)
 何も出来ない自分が悔しかった。
 しかし、勤務時間内に堂々と抜け出すのは珍しいが、救急搬送に関する反応は、皆似たり寄ったりだった。
 無保健者の診療報酬を取りっぱぐれたり、受け入れた患者を死なせてしまったり、まして、救えなかった患者の家族から医事訴訟でも起こされようものなら、病院全体のダメージになる。
 当然、担当した医師は悪くすれば損害賠償を請求され、医師免許も剥奪されてしまう。
 だから、どの当直医も、自分が救急の当番ではない限り、重症患者の受け入れには及び腰になる。
 それが、この象牙の塔の裏側。
(恭介さんは、一体この現状を前に何をしようとしてるんだろう)
 幾ら入れ物を整えたところで、中身が同じでは意味が無い。
 幾ら外から素晴らしいスタッフを入れても、内側の体質はそう変わらない。
(かと言って、病院的にはあまり外様が増えるのは嬉しくないだろうしな…)
 あまり他所から引き抜いてくると、そこにまた派閥が起こり、下手すれば乗っ取られる恐れもある。

 人の命は、権力や保身の前には、紙切れより軽い。

(そんなものの為に  

(そんなものの為に、父さんは死んだのかな  

 七海は、医療と言うものに2度絶望した。
 一度目は、父親を交通事故で亡くした時。
 乗用車と公営バスの衝突事故だった。
 その時、当時中学生だった七海も、父親とともにバスに乗っていた。
 即死ではなかった父親は、事故の後、しばらくは生存していた。
 ところが、救急車に乗せられたまま搬送先が決まらず、最後は手遅れになってしまった。

 二度目は、今の病院の実態を突きつけられた時だ。

 笹倉の様な医師を見ていると、もしかしたら、父親の事故の時も同じ様な理由で断られたのではないかと思ってしまう。

(恭介さんは、そんな患者家族の絶望を知らない  

 だから、理想に基づくロジックだけで、走り続けられるのだ。
 彼が七海に背負わせようとしているものは、とてつもなく重いものだ。
 希望と絶望の境界線で戦わなければならない。

 あの時、自分の背中に圧し掛かった絶望を、七海は受け止める自信が無かった。
 信じていた何かに裏切られる絶望を、受け止める自信が無かった。

 それが、今自分が医師である重圧の、根幹。

 本当に嫌だと思ってるなら、明人が言ったとおり辞めてしまえば良いのだ。
 恭介を言い訳にして、それでもその場所に留まっているのは、卑怯だ。
 七海自身が、この場所にいたい何かがあるはず。

 そして、
 重圧から逃れたい弱い自分を、
 医師として覚悟し切れない自分を、
 七海はまるごと明人に預けてしまった。
 明人に求めていたのは、自由でも何でもない。
 ただの逃避。
 自分でも知らない間に、明人を逃げ場所にしていた。
 選ぶより先に与えられてしまった未来に負けそうな自分を、甘やかしてくれる場所。
 振り回されている気でいながら、それを逃避の口実にしていた。

(それじゃ…怒らせても仕方ないよな)

(とにかく、当直が明けたら、直接アパートを訪ねてみよう…)

(訪ねて行っても、いないかもしれないけど…)

(でも、とりあえず行くだけ行って  

 いつまでも悩んでいても仕方が無い。
 いなかったら、また考えよう。

 謝る部分は謝って、伝えるべき部分は伝えて、それから先の事はまた後  


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