Recollection.28 迷走

 明人は、帰ってこなかった。
 七海は、電話を掛けれなかった。

 こちらからコールする勇気が出なかった。
 もし、無視されたら  それが怖くてこちらからアクションを起こす事が出来なかったのだ。
 好きだ、と思った瞬間、そこに同じだけの恐怖感が生まれた。
 今まで意識していなかった、嫌われることへの怖さだ。
 それでも、
 資料を取り纏めた後も、七海はずっと明人の部屋に残っていた。
 自分の家なのだから、そのうち帰ってくるかもしれない。
 そんな消極的な期待があったから。

 しかし、明人が戻らないまま、とうとう夜が明け  
 七海は、始発電車が動くとともに、主不在の部屋を後にした。


 午前6時30分。
 七海は、桜川駅に着いた。
 出勤時刻まで大分間がある。
 七海は、纏めた資料を恭介のマンションまで持っていこうと思い立った。
(あまり病院で話したくないしな  
 親戚と知れるのはもとより、『渡辺先生のお気に入り』と言うポジションに置かれるのも出来れば避けたかった。
 これから恭介が打ち立てようとしている大舞台に、立つ自信は未だ持てていなかったからだ。
「恭介さん、もう起きてるよな」
 普段なら、恭介は6時には起きている。
(赤の他人様なら、間違っても電話しない時間だけど  
 何せ、生活習慣の分かっている相手だ。
 七海は携帯を取り出した。
 まず、恭介に電話を掛ける前に、ディスプレイを確認した。
 明人からの着信は、無い。
(当り前か…あれだけ怒ってたんだ。まして、自分の家に帰ってこなかったくらいなのに、向こうから電話なんてしてこない…よな)
 それどころか、もしかしたら、未だに家に帰っていないかもしれない。
 諦めて、電話帳から恭介の番号を選び、発信した。
 1回。
 2回。
 3…。
  もしもし?』
 3回目のコール音が半ばで応答した。
 聴こえてきた声は、覚醒している。
 やはり、起きていたようだ。
「恭介さん? 朝早くから悪いんだけど、今から資料持って行っていいかな」
『今からか? まあ、別にかまわないが』
 電話を受けた恭介の声は、少々怪訝そうだった。
「そう。今駅に着いたところだから、5分くらいでそっち着くから」
 通話を切り、携帯を鞄に放り込んだ。
 恭介のマンションへ足を向ける。
 彼のマンションは、桜川駅と病院のちょうど中間、双方から徒歩5分の距離だ。
「おはよう。朝早く、ごめん」
 七海を出迎えた恭介は、起きてはいるが、さすがにまだルームウェア姿だった。
「いや、こっちこそ急かして悪かったな。まあ、上がれよ。まだ時間もあるんだ。コーヒーくらい飲んでいけ」
「あ、うん」
 促されるまま室内へ入り、ダイニングテーブルの椅子に腰かける。
 恭介は、既にメーカーにドリップされたコーヒーを、カップに移して七海の前に置いた。
「朝食は? 下から何か取ろうか」
 1階に小さなレストランが入っていて、マンションの住人のみ、出前をしてくれる。
「要らない。これ、頼まれてた資料」
 とにかく、預かっている資料を早く渡してしまいたい。
 鞄の中から、数冊のファイルを手渡した。
 恭介はそれを受け取り、中身をチェックし始めた。
「…うん…まあ、良いんじゃないか?」
 流し読みでぱらぱらっと全体に目を通し、恭介はファイルを閉じた。
「そう。良かった」
 とりあえず、肩の荷が一つ下ろせた。
 七海は心の中で安堵の息を吐いた。
「急遽、倉沢氏が論文を見に来られる事になってな」
「倉沢…って、理事会の?」
 かなり発言力のある理事の一人だ。
 と言う事は、今回の教授選に関して倉沢氏は恭介を推していると言うことか。
「実は、倉沢氏のお嬢さんと結婚することになった」
 へえ、そう。結婚  
  え!? 結婚!?」
 今までそんな話は家庭内でも院内でも聞いたことが無い。
「と言っても、まずは教授選。その後の話だが」
 まるで、学会のスケジュールか何かのように、淡々と彼は語った。
「それこそ、随分急なんだね」
「院長の紹介でな」
「へえ…」
「倉沢氏は大学や病院への発言力はもちろん、救急医学会に顔が利く人物だ」
「へ?」
「ER創設に、かなり興味を示してくれている」
「それって  
 まさか。
 いや、そのまま、政略結婚。
「バックボーンの無い人間は、出来るだけ有効に手札を切らないとな」
 恭介が不敵に笑った。
 七海は、開いた口が塞がらなくなった。
(自分自身まで、手駒に使うか……)
 どうやったら、それほどまでドライになれるのだろう。
 人間、そこまで私人としての自分を殺してしまえるものなのだろうか。
 七海など、昨日の明人との喧嘩の事で、一杯一杯になっていると言うのに。
 しかし、臨床医学の世界ではこれと言って後ろ盾の無かった恭介も、これで盤石という訳だ。
「何かを変えようと思ったら他所見する余裕は無いんだ」
 まるで、心の中を見透かされたみたいな言葉だった。
 余裕は無いと言いながら、恭介は、大学病院と言う盤の上で行われるボードゲーム心底楽しんでいる様に見える。
 七海だけではない。
 田島や、倉沢氏の娘、おそらく恭介が引き抜いたと言う外科医の小田切も  
 いろんな人間が彼のスプレッドに飲み込まれてゆく。
 何に付け恭介のやり方は強引、かつ徹底的だ。
 そうでもなければ、勝ち残っていけないのだろう。
(でも、僕には理解できない。そこまで、自分自身を捨てられない)
 これまでは、その力強さに憧憬すら感じていた。
 けれど、今は  
 彼の作り出すあまりにも性急な流れに、七海の心は追いつけないでいる。
 恭介のボードの上で踊らされる事に、心が軋み始めていた。
 彼が指し示すのはたった一本の道。
 本当に、そのレールの先に自分の未来があるのか  
 今までは自信が無いながらも薄ぼんやりと見えていたそれを、完全に見失ってしまった。
(何がそこまで、恭介さんを走らせているんだろう)
 恭介の眼には、現在の事なんか見えていない。
 彼の視線はもっとずっと先の方。
 何年も先を見据えている。
 しかし  

 冷めつつあるコーヒーを一口含み、七海は咽喉の奥に引っ掛かっている言葉を飲み込んだ。

 結局、七海が恭介のマンションを出たのは、小1時間後。
 恭介に急用の電話が入ってきたのをきっかけに、彼の部屋を逃げて来た。
「結婚…か」
 そんなものすら、手札の一枚。
 マンションのエントランスまで降りてきたところで、七海の口から溜息が洩れた。
「あ…そうだ。携帯…」
 もしかしたら。
 万が一。
 そんな気持ちで、携帯を鞄から取り出した。
「あっ!」
 小さなディスプレイに、『着信アリ』の文字。
 履歴を確認すると、確かに明人だ。
 伝言は無かった。
 着信時刻は、わずか5分前。
 鞄の中にしまったままだった為、着信音に気付かなかったようだ。
(しまった。鞄から出しておけば良かった)
 後悔先に立たずだ。
 七海は、急いで明人に電話を掛け直した。
 しかし、数秒の沈黙の後、留守番電話サービスに繋がってしまった。
 電源を切っているらしい。
「……駄目か」
 完全な擦れ違いだ。
「どうしてこんな時に限ってタイミングが合わないんだろ…」
 せっかく向こうから連絡をくれたのに。
 無視したように思われただろうか。
 焦燥感が、七海の身体を覆った。
 一刻も早く、連絡を取りたい。
(今すぐ、声が聞きたい)
 数度掛け直してみたが、いずれも繋がらなかった。
(……なんて、虫が好すぎる…かな)
 きっと、未だ怒っている。
 仕事を持ち込んで、喧嘩になって、今度は仕事から逃げたいなんて、身勝手もいいところだ。

 胸を覆う焦燥感が、じわじわと心臓を腐食するような絶望に変わっていった。



 この頃の七海は、何もかもが中途半端だった。
 恭介のように徹底して自らの理想を追う事も出来す、
 明人のように徹底して自分の欲求に忠実にもなれず、
 ただ、その狭間で押し潰されそうになっていた。


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