Recollection.10 笑って。

 例の事件からちょうど3週間後  その日、七海は明人と会う約束をしていた。

「まあ! それで常盤木先生、ご自分の携帯番号教えちゃったんですか!」
 目を丸くして声を上げたのは、看護師の田島だった。
 不測の事態が無い限り、今日は時間通りに退勤しなければならない。
 円滑に業務を進める為に、彼女にこっそり協力を頼んだ。
「実は…はい。そうなんです」
「しかも、そんな事まで安請け合いしちゃって…。昔、うっかり連絡先教えてしまって、元患者さんに自宅まで押しかけられた先生もいるんですから、気を付けて下さいね」
 田島が心配そうに溜息を吐いた。
 我ながら軽率だったと、今更ながら自覚する。
「大丈夫です。  多分」
 引き受けてしまったものは、もう覆せない。
 元々は、明人が真剣に困っていたことと、七海自身が診療記録を取りそびれた彼の刺創の詳細を確認したいことと、両者の利害関係が一致して決まったことだ。
 それを今更撤回などすれば、先方も困るだろうし、何より  
(本当に病院まで押し掛けて来そうなんだよな…)
 さすがに、それは困る。
 恭介の教授選も、今が大事に時期だ。
 一般スタッフには知られていないが、上層部には七海と恭介が親戚である事は、周知されている。
 七海の失態は、そのまま恭介にも響いてしまう。
「でも、常盤木先生にしては珍しく軽率でしたね。他の若い先生方が飲み会だ合コンだっていって騒いでても、全然ノらないし、普段は過ぎるくらい慎重ですのに」
 田島が物珍しそうに七海の顔を見た。
「反省してます」
「とにかく、常盤木先生がちゃんと時間通り帰れるように、私も協力させてもらいます。厄介ごとはさっさと終わらせてしまいましょ」
 田島が、椅子に座っている七海の両肩をぽんぽんと叩いた。
「ありがとうございます」
 彼女の通称は、『第一外科のお母さん』。
  後の、『ERのお母さん』である。
 この道十数年のベテラン看護師である彼女は、患者…スタッフに隔て無く、厳しくて、頼りがい甲斐があって、そして、優しい。

 その日、田島の多大なる協力によって、七海はどうにか日直定時に退勤する事が出来た。

 そして、午後8時。
 初対面から3週間ぶりに顔を合わせる津守明人とは、彼の地元駅での待ち合わせになっていた。
「久しぶりー」
 1時間掛けて辿り着いた七海を、彼は初対面の日と同様、軽薄な笑顔で出迎えた。
「どうも」
 たいして親しくも何ともない相手に、どんな挨拶をしたら良いのやら。
「カタイなぁ、相変わらず。ほら、笑ってー」
 自らも目いっぱい口角を引き上げながら、明人は七海のほっぺたを思いっきり引っ張った。
「…にすんだ、おっ!」
 その手を七海は力いっぱい叩き落した。
「何すんだよ!」
「笑う角には福来たるでしょ? 眉間にシワ作っちゃだめじゃん」
「…………」
 そういう問題か。
「ホラ、またー。わらっ  何でそんな後ろ退がんの」
「またほっぺた引っ張られそうだから」
「何で分かんの?」
「明人の両手がそのポジションに来てる!」
 明人は、それぞれの手の親指と人差し指で輪のような形を作り、七海の顔の高さで待機させている。
「ありゃ? まっ、いいじゃんよ。早くいこうぜ」
 あっさり手を引き、明人は回れ右の合図を出した。
「……ったく、調子の良い」
 ぶつぶつと言いながら、七海は明人の半歩後ろを付いて歩いた。
「七海、晩メシ食った?」
「一応、出掛けに軽く食べた」
「じゃ、即行でうちいきゃいいか」
 あれ?
「職場じゃないのか」
 七海は、そんなものは美容院でするものだと思っていた。
「ホントは店に来てもらおうと思ってたんだけどさ、今日は先に他のヤツが使うって決まってて、場所取れなかったんだ。七海は、今日ダメだとなかなか次が取れないだろ?」
「ああ…うん。まあ、そう…だな」
 日直でストレートに帰れる日など、そうそう作れるものではない。
「それにまあ、今日はどうせ様子見っていうか、とりあえずちょこっと切らせてもらって、髪質とか状態とか確認するだけだから」
(ん? …今、そこはかとなく引っ掛かる言葉があったような?)
「そんな何回も付き合わなきゃならないのか!?」
 てっきり今日一回で終わるものだと思っていた。
「本選まで残ったら、最後は会場でやるんだけど  あれ? あんまし深く考えて無かった?」
「正直言うと……ちょっと」
 それは困った。
 そうそう何度もこんな時間は作れない。
 今日だって、田島に相当無理を頼んでいる。
「まぁまぁ。心配しなくてもそんなとこまで残らないから」
 そう言って、明人は笑った。
「万一残ったらどうするんだよ…」
 頭痛がする思いで七海は呟いた。
「まっ、そういうわけだから、今日の作業は家でもできなくねぇし。それに、まぁ、あんまり人前でやりたくねぇし、ってことで。…あ、ヤだった? 家ん中とか入るの」
 明人が急に不安そうな顔になった。
(そう言えば、コンテストみたいな…とか言ってたっけ。それじゃ、あまり人前でやりたくないだろうな)
「別に、どこでやってもいいよ。そっちがやりにくくないんなら」
 場所の事なんてどうでもいい。
 美容院だろうが、自宅だろうが。
 それより、今後の日程の方が思いやられる。
「じゃ、よかった」
 心底安心した顔で、明人が言った。
 初めて見る、素の顔だった。
 その意表を突いた彼の反応に、やはり本当に切羽詰っていた事を確認する。
(そっか。今さら断られたら、やっぱり困るんだな…。仕方ないか。何とか、調整できるように頑張ってみよう…)
 へらへらしながらも、仕事は真剣なようだ。
 途中で抜けるような真似をしたら、それこそ、最初に断るより酷いことになる。
 本気で人がチャレンジしようとしている事に、せめて足を引っ張る真似はしないようにしたい。

 七海は、一応模範的な研修医でここまで通ってきているが、仕事に対するヴィジョンを問われると疑問符が浮かぶ。
 何故なら、自分の進む方向を決めたのが、自分自身ではないからだ。

 最近それが、少しだけ重い。


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